諸葛亮は
「まずは呉軍が荊州を攻めるのが筋。ただしもし攻めあぐねた時は我が軍が試みに攻めてみましょう」
と答えました。
自分に絶対の自信を持っていた周瑜は「その時は勝手に攻めてもらって構わない」と言い放ちました。
曹操は荊州に大軍を残し、南郡に一族の曹仁を大将として配置。夷陵にも同じ一族の曹洪、襄陽には夏侯惇を置いて万全の守りを施しました。正史では夷陵に徐晃、襄陽に楽進を配備したとされますがその直後に起こる合肥の戦いで楽進は李典とともに張遼の副将になっているので時間的整合性に疑問があります。あるいは撤退時の一時的配置だったかもしれません。
周瑜は南郡の城を孤立させるためまず勇将甘寧に夷陵を攻撃させます。ところが曹洪(正史では徐晃とあるも疑問)はわざと城を開け敵が空城に入ったところを逆包囲してしまいました。周瑜は援軍を派遣して曹操軍を撃破、甘寧を救出します。敗走した敵は南郡に合流しました。
南郡を包囲した呉軍は激しく攻め立てますが、その最中流れ矢に当たって周瑜は負傷してしまいます。それでも激しく攻め立て呉軍はついに南郡の城を攻略しました。ところがその隙を衝いて劉備が荊州南部の武陵、零陵、桂陽、長沙の四郡を奪取、さらには呉軍が周瑜の療養のため一時撤退した南郡まで策を用いて奪ってしまいます。
と言い放ちました。
報告を受けた呉侯孫権は激怒しますが、周瑜は逆に劉備に婚姻を持ちかけて呉に呼び寄せ暗殺する策を進言します。ところがこれも失敗。諸葛亮の策を授けられた劉備は孫権の妹を娶るとさっさと帰国してしまいました。呉軍が追撃するも時間差で逃げられてしまいます。
何度かの外交交渉の末、劉備が蜀(現在の四川省)を取れば荊州を返すと云う約束が成立し周瑜は劉備の代わりに蜀を呉が攻めるから領内を通して補給も行うように申し出ました。もちろんこれは策で、どさくさに荊州を攻め取るつもりでした。しかし、諸葛亮は周瑜の策など百も承知で城の守備を固め領内深く侵入した呉軍を攻める姿勢を見せます。
怒った周瑜は、あまりにも興奮したため南郡の戦いで受けた矢傷が開き血を吹き出して倒れました。撤退の途中巴丘というところで危篤に陥り亡くなります。享年36歳。正史では遠征の準備中に病死したとありますが、これに関しては私は演義の記述の方が真実を伝えているような気がします。
ところで魯粛は自分に代わる存在として龐統(ほうとう)という人物を孫権に推薦しました。実はこの人物、かつて水鏡先生が「伏龍、鳳雛を得れば天下も望むことができる」と言った人物の一人でした。伏龍が諸葛亮なら鳳雛こそ龐統だったのです。襄陽の名士龐徳公の甥で戦乱を避け呉に来ていました。
しかし長身で美丈夫の諸葛亮と違って龐統は顔にあばたのある醜男(ぶおとこ)、態度もぶっきらぼうだったことから呉侯孫権はこれを嫌い採用しませんでした。気の毒に思った魯粛は「紹介状を書くから劉備に仕えてみないか」と勧めます。以前諸葛亮も龐統を誘って紹介状を書いていましたから、本人もその気になり劉備のもとへ赴きました。
ところが劉備に会った龐統は、ただ名乗るだけで二人の紹介状を出しませんでした。さすがに劉備は孫権のように追い返す事はしませんでしたが、丁度諸葛亮が荊州南四郡の視察で不在だったため、本物の鳳雛先生かどうか判別できずとりあえず耒陽(らいよう)県令の辞令を与えて送りだします。
「そんな政務など一日で片づけて見せる」と豪語し、本当に裁判を抱えた当事者たちを役所の前に一列に並ばせ日が暮れるまでにすべて片づけて見せたのです。
「紹介状も出してくれなかったし、話もなかった」と劉備がばつの悪そうな顔をすると
「ともかく耒陽には別の県令を派遣し、彼は呼び寄せる事です」と諸葛亮は答えました。
劉備が龍鳳の双壁を得て陣容を整えたという報告は、鄴の曹操の元にももたらされます。人材コレクターでもあった曹操はこれを警戒し、再び南進の決意を新たにしました。謀臣荀攸は「遠征に先立って後顧の憂いを断つことが肝要です」と進言します。