208年正月、鄴に凱旋した曹操は玄武池を作って水軍の訓練を始めました。明らかに南方遠征を睨んだものです。三公の制を廃止して丞相に自ら任じました。ですからこれ以降が正式な丞相です。
同年7月、曹操はいよいよ南方征伐の軍を発します。最初の標的は荊州の劉表。しかし劉表は矛を交える前に病死しました。荊州の首都襄陽は後継者を巡って混乱します。劉表の嫡子で遺言では正式な後継者となるべき劉琦は呉に対するため江夏の守りについていました。劉琦の後見人たる皇叔劉備もまた最前線新野におり不在。後妻蔡夫人とその兄蔡瑁は劉表の遺言を偽造し夫人の子次男劉琮を後継者と定めます。
荊州の実権を握った蔡瑁は、曹操が大軍をもって攻めてくることに恐れをなし劉備の頭越しに曹操に降伏しました。後でこの事を知った劉備は驚き新野を捨て襄陽に至ります。ところが蔡瑁は城門を閉め劉備を中に入れませんでした。
劉備を慕って多くの領民が付いてきたため進軍は遅々として進みませんでした。9月50万とも号する曹操の大軍が襄陽に入城します。曹操はいち早く降伏した功を認め劉琮を青州刺史に任命します。しかし荊州の実権は奪いました。演義では青州に向かう劉琮を于禁に命じて追撃させ母の蔡夫人ともども皆殺しにしたとされますが、実際はなかったようです。
曹操は荊州の諸将を厚遇し、人心を安定させました。同時に逃げた劉備に対しては精鋭を選りすぐって追撃させます。甘夫人の死去、夫人の子阿斗を抱いた趙雲単騎駆けの脱出行、張飛の長坂橋仁王立ちなどエピソードが起こるのはこの時です。
江陵には曹操の軍が先に到着し、占領します。仕方なく劉備は進路を東にとり夏口に向かいました。軍勢は江夏の劉琦と合わせても2万弱。滅亡は時間の問題でした。そんな中劉表の弔問と称して呉の使臣魯粛が劉備のもとを訪れました。
「貴方が身の安全を第一と考えられるなら曹操に降伏なさるがよろしい。それが嫌なら戦う事です。貴方は降伏するという態度を見せながらなかなか決断なさらない。それでは禍が降りかかりますぞ」
と孫権が問うと
「わが君は卑しくも皇叔左将軍劉豫州と呼ばれるお方。天命拙く滅びる事があろうと、降伏など勧めたら私が斬られます」
怒った孫権は
周瑜字は公瑾。以前にも登場しましたが孫権の兄孫策と同年で同窓で学んだ親友でした。長身で美男、音楽に堪能、楽師が間違えるとどんなに酔っていても振り返るほどだったそうです。人々は彼を紅顔の美周郎と呼びました。孫策が挙兵すると手勢を率いていち早く合流、孫策の覇業を助けます。喬玄の娘二人が絶世の美女だと聞くと姉を孫策が娶り妹を周瑜が娶るほどの仲でした。