鳳山雑記帳はてなブログ

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三国志14  赤壁の決戦

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 曹操孫権劉備連合軍が戦った故戦場赤壁というのは湖北省長江沿いにある地名です。漢水との合流点からやや遡ったところ。ただし宋代に蘇軾が赤壁の賦を詠んだ場所と実際の戦場は違い、前者を文赤壁、後者を武赤壁と呼ぶそうです。
 
 ところで旧陸軍東部軍参謀で兵法研究家だった故大橋武夫氏はその著書の中で、実際の戦場はさらに下流漢水合流点近くではなかったかと推理しておられます。
 
 というのも曹操軍は少なくとも2~30万はいたわけで、その補給を考える場合策源地である襄陽からの補給は水上輸送に頼らなければならなかったはずだという主張です。たしかに一理あります。華南の地形は南船北馬の言葉通り湖沼が点在し船でなければまともな輸送はできなかっただろうと私も考えます。湖北湖南が一大穀倉地帯になるのははるか後年の明代。それまでは干拓も治水も進んでいなかったのではないでしょうか?
 
 とすれば劉備が拠った夏口、江夏は曹軍を脅かす絶妙な位置にあります。曹操軍が疫病に悩まされたというのは裏を返せば劉備の水軍がその補給路を脅かしていたという間接的な証拠になるかもしれません。通説に言われる事と違い、劉備軍の働きはもっと注目して良いかもしれません。
 
 
 南船北馬の境は淮河であったと云われます。曹操軍は慣れない水上生活に苦しみ軍中に疫病が蔓延、満足に戦える兵士はほとんどいなかったそうです。曹操は敗れたわけではなく疫病によって撤退したという説もあるくらいです。ただ本稿は広く人口に膾炙している赤壁の戦いを描くことにします。
 
 
 曹操は、蔡瑁・張允らを水軍都督に任じ赤壁北岸に一大水上要塞を建設しました。これにはさすがに周瑜も攻めあぐね南岸に陣取ったまま対峙します。周瑜曹操の大軍を破るには火計あるのみと考えていました。
 
 そんな中、呉の宿将の一人黄蓋周瑜に対して「自分が偽って曹操に降伏し、その船に薪と草を積んで火を掛けよう」と申し出ます。これは正史三国志にも出ているので史実なのでしょう。二人は相談し、軍議の席上黄蓋がわざと周瑜に逆らって怒らせ、鞭打ちの刑を受けます。
 
 黄蓋はこれに怒って曹操に降伏するという密使を派遣します。呉の軍中には当然曹操の間者が紛れ込んでいますから信用されます。ただ問題は風向きでした。この季節は西北の風で火を掛けても被害を受けるのは呉軍になるのです。
 
 
 周瑜は困り果て、諸葛亮に相談します。諸葛亮は「自分が八門遁甲の秘法で天に祈り東南の風を呼びましょう」と答えました。合理的解釈では実は諸葛亮はこの時期一時だけ東南の風が吹く事を知っておりそれを利用したという説があります。
 
 
 それまでも周瑜諸葛亮を将来の危険人物として警戒し秘かに殺そうとしていましたが、今回だけは藁にもすがる気持ちで頼りました。
 
 諸葛亮は祭壇を築き三日三晩祈ります。すると不思議なことに東南の風が吹いてくるではありませんか!これを見ていた周瑜は空恐ろしくなり徐盛と丁奉に命じて諸葛亮を殺すべく派遣しました。しかし諸葛亮はいち早く危険を察知して劉備のもとに逃亡した後。
 
 
 さすがに周瑜も馬鹿ではありませんから、曹操軍を叩くのはこの時とばかり武将たちに攻撃命令を下します。一方、曹操黄蓋の降伏船を心待ちにしていました。水塞内に侵入する降伏船を見た側近の程昱はその異常性に気付きます。
「丞相、これはおかしいですぞ。降伏船なら物資を満載して船足は重いはず。軽々と来るは火計の陰謀ありとみました!」
 
 曹操も怪しいと思い停船を命じますが、時すでに遅く降伏船は火に包まれながら曹操軍の大船団の真っただ中に突入しました。東南の風に煽られて大船団は瞬く間に猛火に包まれます。
 
 焼死者溺死者数十万、曹操軍は壊滅的な打撃を受けました。曹操は急遽陸に上がり安全地帯の江陵めざして敗走します。しかしあらかじめ諸葛亮によって行く先々に伏兵が待ち構えたためさらに多くの犠牲者を出しました。
 
 
 三国志演義では伏兵の最後の将は関羽が務めました。ボロボロになって辿りついた曹操を見た関羽は、かつて恩を受けた事を思い出しわざとこれを見逃したと伝えられます。義将関羽らしいエピソードです。諸葛亮関羽曹操を見逃すことまで承知で、関羽に恩を返させるために派遣したとも云われます。
 
 
 ともかく曹操は辛くも虎口を脱し江陵から襄陽に至り、そこで休息してから本国へ撤退しました。これによって曹操による天下統一は遠のきます。諸葛亮の天下三分の計にまた一歩近づいたのです。
 
 
 曹操の天下統一は頓挫し、あとは劉備がどのようにして荊州、そして益州を得るかにかかってきました。しかし実際に戦を担当し少なからぬ犠牲を払った呉は黙っていません。周瑜諸葛亮荊州を巡る争いはまもなく始まろうとしていました。そして呉にとっては大きな悲劇が待ち受けます。
 
 
 次回、二人の知者の戦いを描きましょう。