鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

三国志18   麦城哀歌

イメージ 1
 
 213年魏公、216年には魏王となりますから以後曹操の勢力を魏と呼びます。劉備がついに蜀を占領したという報告は魏の曹操に衝撃を与えます。今まで根なし草だった劉備がついに安定的な地盤を得たからです。
 
 
 曹操は、蜀の劉備と対抗するためにまずは橋頭堡を築くべく215年、漢中の張魯を攻めます。これは簡単に敵が降伏したため間もなく終わります。ところで張魯が無駄な抵抗をせずあっさりと曹操に降伏した事は、後の道教教団にとっても良かったと思います。そうでなければ太平道張角のように徹底的に殲滅されたでしょうから。
 
 
 ところが漢中は蜀の喉元にあたるため劉備は魏の占領を排除すべく217年出兵しました。この漢中戦役は珍しく劉備が城に籠って敵の疲れを待つ作戦に出たため魏軍は苦戦します。これは数年の長きに渡り定軍山では曹操挙兵以来の宿将夏侯淵が戦死するなど大きな犠牲が出ました。
 
 鶏肋(けいろく)の故事が生まれたのもこの時です。鶏肋とは中華料理のスープなどに入っている鶏のあばら骨のことで肉は無いが味わい深く捨てるに忍びないということから、これを漢中に例えたものでした。
 
 曹操のつぶやきを真に受けた夏侯惇が全軍に意味も分からぬまま布告したところ、俊才として名高い楊修は勝手に撤退の準備を始めます。これは丞相が撤退するという意を含めた言葉だろうと解釈したのです。
 
 それを聞いた曹操は、自分の内心を覗かれているような薄気味悪さを感じ楊修を処刑してしまいます。曹操は日頃から才を鼻にかける楊修を嫌っておりこの時怒りが爆発したのだと云われます。
 
 が、私は別の解釈を持っています。というのも楊修は曹操の三男曹植の後見人で、跡目争いで長男の曹丕と争っていたためこのような男がいると大乱になると危惧した曹操はいつか除こうと考えていたのだと思います。
 
 
 219年、珍しく単独で曹操に勝利した劉備は漢中を占領し漢中王を名乗ります。漢中王とはかつて漢の高祖劉邦が名乗った王号で、いずれは支那大陸を平定し皇帝になるという意味を含んでいました。この時が劉備の絶頂期だったと思います。ところが悲劇は彼の知らないところで秘かに進行していたのです。
 
 
 劉備が漢中王になったことは、呉の孫権を不快にさせます。約束だった荊州も一部を除いてまったく返還する気配を見せなかったからです。曹操孫権の不満に付け込み秘かに使者を送って同盟を結びました。217年蜀呉同盟論者だった魯粛が亡くなった事も大きかったと思います。
 
 孫権は魏と示し合わせて、関羽が魏と戦争している隙に荊州に攻め入るという密約を結びました。219年、関羽漢水を渡って北上し魏将于禁の守る樊城を攻撃します。この報告を受けた孫権呂蒙を大将とする呉軍を派遣、荊州を攻めました。
 
 留守を守る南郡の糜芳(びほう)、公安の傅士仁(ふしじん)らは呉の大軍に恐れをなし降伏してしまいます。猛攻の末樊城を降した関羽ですが、呉軍来襲の報告を受けて急ぎ引き返しました。が、待ちかまえていた呉軍は関羽軍を奇襲、進退極まった関羽は麦城という小城に入ります。
 
 至急援軍を求める使者を出した関羽でしたが、荊州国境に最も近い上庸に駐屯していた劉封孟達は戦況が絶望的なことから援軍出兵を断ります。後にこの事が問題になり、劉封は処刑され孟達は魏に亡命しました。
 
 ようやく成都に使者が辿りついた時にはもはや手遅れでした。麦城は落ち関羽は養子の関平、側近の周倉とともに呉軍に捕えられます。降伏するように何度も孫権に勧められますがこれを拒否、関羽は首を刎ねられました。
 
 孫権は、怒りが自分に向く事を恐れいかにも曹操の命令で荊州を攻めたように偽装し関羽の首を曹操に送りまます。しかし曹操は、司馬懿(しばい、字を仲達。後に諸葛亮最大のライバルになる)の献策を容れ逆に関羽の首を丁重に葬ります。当然劉備の怒りは曹操ではなく孫権に向きました。
 
 荊州攻めの主将だった呂蒙がまもなく病死したのも関羽の呪いだと噂されます。それだけ義将関羽は人心を得ていたのでしょう。
 
 
 劉備は呉への復讐の機会を待ちました。それは夷陵の戦いへと発展します。しかしその前に、我々は稀代の英雄曹操の最期を描かなくてはなりません。