曹操は、蜀の劉備と対抗するためにまずは橋頭堡を築くべく215年、漢中の張魯を攻めます。これは簡単に敵が降伏したため間もなく終わります。ところで張魯が無駄な抵抗をせずあっさりと曹操に降伏した事は、後の道教教団にとっても良かったと思います。そうでなければ太平道の張角のように徹底的に殲滅されたでしょうから。
ところが漢中は蜀の喉元にあたるため劉備は魏の占領を排除すべく217年出兵しました。この漢中戦役は珍しく劉備が城に籠って敵の疲れを待つ作戦に出たため魏軍は苦戦します。これは数年の長きに渡り定軍山では曹操挙兵以来の宿将夏侯淵が戦死するなど大きな犠牲が出ました。
219年、珍しく単独で曹操に勝利した劉備は漢中を占領し漢中王を名乗ります。漢中王とはかつて漢の高祖劉邦が名乗った王号で、いずれは支那大陸を平定し皇帝になるという意味を含んでいました。この時が劉備の絶頂期だったと思います。ところが悲劇は彼の知らないところで秘かに進行していたのです。
劉備が漢中王になったことは、呉の孫権を不快にさせます。約束だった荊州も一部を除いてまったく返還する気配を見せなかったからです。曹操は孫権の不満に付け込み秘かに使者を送って同盟を結びました。217年蜀呉同盟論者だった魯粛が亡くなった事も大きかったと思います。
孫権は魏と示し合わせて、関羽が魏と戦争している隙に荊州に攻め入るという密約を結びました。219年、関羽は漢水を渡って北上し魏将于禁の守る樊城を攻撃します。この報告を受けた孫権は呂蒙を大将とする呉軍を派遣、荊州を攻めました。
留守を守る南郡の糜芳(びほう)、公安の傅士仁(ふしじん)らは呉の大軍に恐れをなし降伏してしまいます。猛攻の末樊城を降した関羽ですが、呉軍来襲の報告を受けて急ぎ引き返しました。が、待ちかまえていた呉軍は関羽軍を奇襲、進退極まった関羽は麦城という小城に入ります。
ようやく成都に使者が辿りついた時にはもはや手遅れでした。麦城は落ち関羽は養子の関平、側近の周倉とともに呉軍に捕えられます。降伏するように何度も孫権に勧められますがこれを拒否、関羽は首を刎ねられました。
孫権は、怒りが自分に向く事を恐れいかにも曹操の命令で荊州を攻めたように偽装し関羽の首を曹操に送りまます。しかし曹操は、司馬懿(しばい、字を仲達。後に諸葛亮最大のライバルになる)の献策を容れ逆に関羽の首を丁重に葬ります。当然劉備の怒りは曹操ではなく孫権に向きました。