曹操が魏公・九錫の栄典を得た時に荀彧、魏王を名乗った時に荀攸が反対し死を賜わったり迫害されて憤死したとされます。正史三国志では、そのようなことはなくただ病死したとだけ記され、どちらもその子孫は厚遇されたようですから強制的に死を賜ったり自害したわけではないようですが、彼ら挙兵以来の功臣と曹操の求めるものが違ってきていたのは事実だと思います。
あくまでも漢朝を助けて天下を治めようとした荀彧・荀攸たちに対して戦乱の世を治めるには漢朝に代わる新たな力が必要だと考えた曹操。いつしか野望に燃える曹操は漢の名族たる彼らを遠ざけ、曹操の周囲には彼の野望を助ける新たな側近団が形成されつつありました。
その代表は、かつて曹操の敵対勢力に属した賈詡や華歆、王朗たちでした。河内郡温(河南省焦作市)の名族司馬氏出身の司馬懿もこのグループです。なぜか演義では登場しませんが九品官人法という科挙成立まで支那王朝の基本人材登用法を確立した陳羣(ちんぐん)もこれに加えて良いでしょう。実は陳羣はかつて徐州時代の劉備に仕えていた事もありました。
曹操には、正室卞氏(べんし、武宣皇后)との間に4人の子がいました。長男曹丕、次男曹彰、三男曹植、四男曹熊です。その中で次男彰は武勇一辺倒の男、末子熊は病弱でしたので曹操の後継者は長男丕か三男植に限られました。
中でも曹植は文才も豊かで父に最もかわいがられます。曹植には楊修ら専ら才子と評判の者どもが付き最有力候補になりました。これに危機感を覚えていた嫡男曹丕は、廃嫡を恐れ太中大夫(九卿光禄勲に属する宮中顧問官)賈詡に相談します。
賈詡は、曹丕に策を授けます。曹操が出陣する時曹植はそれを称える詩を吟じました。一方、曹丕はじっと涙を湛えて見守るのみでした。曹操は曹丕の方が実があると感じます。ある日曹操は、賈詡を召して後継者について問います。
それに対し、賈詡はじっと考え込むのみでした。
「太中大夫、何故答えぬ?」と曹操が疑問を口にすると
220年、関羽を討って都許昌の安泰を得た曹操は漸く安心したようでした。魏王宮は鄴(河北省)にあったので曹操はもっぱらこちらに滞在します。三国志演義では、曹操が洛陽の神木を切り倒しその祟りで病気にかかるエピソードがあります。激しい頭痛に見舞われた曹操は神医華佗を召したところ華佗は頭を切り開いて手術しなければ治らないと言いました。猜疑心深い曹操は自分を殺そうとしていると勘違いして華佗を殺し、自分もそのまま病死するという展開です。
「天下はまだ安定していない。余の葬儀が終わればすぐ喪服を脱ぎそれぞれ自分の定められた役目を果たすべし。亡骸は普段着のまま埋葬し墓に財宝を入れてはならん」
ずいぶんと三国志演義のイメージとは違います。演義では盗掘を防ぐために偽塚七十二を築けと言ったとされますから。正史の方が曹操の正しい姿を表わしているような気がします。ともかく稀世の英雄曹操は亡くなりました。享年66歳。