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曹操の墓

三国志曹操の墓」と断定…河南の墳墓、遺骨確認・副葬品の数々も
12月27日20時50分配信 サーチナ



河南省政府で文化財の保護・管理を行う部署の省文物局は27日、安陽市安陽県の安豊郷西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155-220年)墓と断定したと発表した。「曹操高陵」内部からは、60代男性のものとみられる遺骨も見つかった。

 27日付中国新聞社電によると、河南省政府で文化財の保護・管理を行う部署の省文物局は同日、安陽市安陽県の安豊郷西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155-220年)の墓と断定したと発表した。「曹操高陵」内部からは、60代男性のものとみられる遺骨も見つかった。

 曹操の墓と伝えられている陵墓はほかにも多く、安豊郷西高穴村の“曹操”高陵を「根拠のない伝承」と疑う声も多かった。河南省文物局の陳愛蘭局長によると、墓の規模や状況などが当時の記録と合致し、内部の壁画も後漢末から魏にかけての時代のものと判断できた。

 最も有力とされた証拠は、「魏武王」との文字が刻まれた石牌が発見されたこと。記録によると、曹操は「魏公」ついで「魏王」に封じられた(地位を与えられた)。死後に贈られた諡号(しごう)は「武王」で、出土した石牌と一致する。

 なお、曹操は後に「魏の武帝」と呼ばれるようになったが、曹操を「武帝」と称するようになったのは子の曹丕後漢献帝からの禅譲(位を譲ること)により皇帝に即位してから。石牌にある「魏武王」は、むしろ曹操が死去した当時の史実に合致する。

 陵墓の墓室からは遺骨も見つかった。専門家の鑑定によると60代の男性。66歳で死去したとされる曹操と年齢面でも一致する。


 魏・呉・蜀漢が並立した「三国時代」は、語り物や劇などでさまざまなエピソードが広く親しまれるようにった。それらを集大成したのが「三国志演義」。民間伝承や三国志演義曹操は、漢の皇室を脅かし天下をねらう「冷酷無慈悲な敵役(かたきやく)」として描かれている。しかし実際には「すばらしい能力の持ち主で、新しい時代の到来を目指した人物」などの評価が定着している。(編集担当:如月隼人)


                   - Yahoo!ニュースより転載 -


 三国志の英雄の中で、諸葛亮の墓は漢中定軍山で有名ですが、こと曹操となると墓の場所が見つかりませんでした。

 三国志演義によると彰徳府講武城外にニセ塚七十二を築かせて本当の墓が分からないようにしたそうですから、まあこのニュースが事実だとすれば凄い発見だと思います。


 もっとも疑り深い私は、ニセ塚の一つじゃないの?なんて思ってしまいます(苦笑)。


 場所が安陽市ということですから殷墟の近くっぽいです。さらには戦国時代の激戦地で40万の趙兵が秦軍に穴埋にされた長平も近くじゃなかったですか?


 あの辺りは、掘れば人骨がごろごろ出そうで怖いです。


 ところで彰徳府という呼び名はおそらく後漢三国時代にはなかったと思います。後漢代の行政区分では魏郡か朝歌郡(三国時代には河内郡に含まれるか?)のどちらかだろうと思いますが、これだと曹操の本拠地だった鄴(ぎょう)の郊外と言えなくもありません。


 オカルト娯楽読物の「聊斎志異」では鄴郊外の川の底に曹操の墓があるという話があるそうですが、ここまでくると眉唾物です。アッチラ大王じゃないんだから(苦笑)。


 別の話では、黄巾の乱の首謀者大賢良師張角の墓が、彼の故郷巨鹿郡内の川の底にあったのを曹操が発見して、ヒントを得たというのもあります。


 話が脱線気味なので(笑)本題に戻すと、意外と曹操の墓って地味だったんですね。事実上の魏の初代皇帝ですからもっと大きな墓かと思いました。


 これだと大臣クラスの墓みたいです。まあそこが曹操らしいのかもしれません。「矛を横たえて詩を賦す」文人の一面もあった曹操の美意識の表れなのでしょうか?



 あと、脱線ついでに二人の女性の骨が一緒に見つかっているでしょ。あれ、おそらく殉死じゃなくて曹操の愛妾の中で子供がいなくて自分の死後浮気しそうな者を無理やり殺させたんですよ、きっと。そこもまた曹操らしい(爆)。