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殷墟と朝歌と鄴

 マニアックでごめんなさい。世界史に興味のない方にはチンプンカンプンだと思うのでスルーお願いします。


 殷墟というのは皆さんが世界史で習った殷王朝の首都遺跡です。ただ近年の研究では商王朝というのが正しいとされます。殷というのは金石文の解読からそれを滅ぼした周王朝が呼んだ名称で、殷の人々は商と自称したらしいのです。一部では商とは殷墟のあった首都の名前(大邑商)で、その国の名称そのものではないという声もあります。が、都市国家ローマが支配した地域を共和政ローマローマ帝国と呼ぶ世界史的慣例からすると首都の名前が大邑商ならその国の名前も商と呼ぶのがふさわしいと私は考えます。

 殷墟は現在の河南省安陽市にあります。その領域は東西6㎞、南北4㎞もあり広大です。存在が確認されている中では支那最初の王朝である商の首都にふさわしい規模です。一応その前の夏王朝も決定的な証拠が出ていないだけで二里頭遺跡夏王朝の首都だったと推定されているので存在したと私は思っています。

 ところで、史書史記だったかどうかは自信なし)では、商王朝最後の王紂王(帝辛)は周の武王に牧野の戦いで敗れ最後の首都朝歌の宮殿で自害したと書かれています。殷墟から出土した甲骨文を解読した所紂王ではなく帝辛と呼ぶのが正しいそうです。商では歴代王に十干(甲乙丙丁戊己康辛壬癸)を付けたようです。例えば商王朝初代湯王は帝乙というように。

 私の印象では朝歌と大邑商は離れているように思ったんですが、地図を見てみると朝歌は安陽市のすぐ南隣の河南省淇県(きけん)。春秋時代には諸侯国の一つ衛(周王室の一族で姫姓)の首都となっています。ただ紀元前660年異民族狄に攻め落とされ、首都を黄河南岸の曹(現在の河南省滑県)に遷都しました。その後衛は楚丘、帝丘(河南省濮陽県)に都を移し最後は紀元前209年秦に滅ぼされました。

 大邑商の規模を考えると朝歌も商の領域に含まれるか、商の郊外にあった王朝の離宮だったろうと推定されます。ですから朝歌が大邑商の一部だと解釈して間違いなさそうです。

 さらに歴史が下って三国時代。有名な魏の曹操が首都と定めた鄴(ぎょう)も安陽市と河北省邯鄲市臨漳県にまたがっており、広い意味で大邑商の領域内と解釈できそうです。そう言えば曹操の墓だとされる遺跡が安陽市で見つかっていますよね。

 この地は古代から都市が成立する条件にあったのでしょう。鄴と殷墟が近いのは知っていましたが、朝歌ともごく近いというのは驚きました。やはり史書の記述は信用できますね。たまに誇張がありますが(苦笑)。