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後漢帝国Ⅱ  赤眉の乱

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 青州(現在の山東省東部)琅邪郡海曲県で醸造業を営む呂母という女性がいました。彼女は資産家で地元の名士でしたが、県の役人を務める息子が些細な事件に巻き込まれて亡くなります。事件の詳細は分かりませんが、おそらく県の役人が絡んだ事件だったと想像されます。

 当時は王莽の新王朝で時代錯誤の現実に全く合わない政治でしたので、ろくに捜査も行われないまま事件は有耶無耶になります。怒った呂母は酒を買いに来た不良少年にただで酒を与えたり、無頼漢に刀剣を買い与えたりして手懐け一種の私兵を作りました。その数は数百人にも及んだといいます。さらに沿岸部の流民も糾合し数千人に膨れ上がった呂母軍は西暦17年ついに反乱を起こしました。反乱軍は海曲県に攻め入り県令の首を取ります。その首を息子の墓前に供えた呂母は兵を率いて海上に去りました。おそらく息子の事件は県令が絡んだか県令そのものが真犯人だったかのどちらかでしょう。

 事態を重く見た王莽は「おとなしく解散すれば反乱の罪は問わない」と懐柔策に出ますが、王莽のでたらめな政治が今回の事件を起こしたと考える呂母はこれを拒否しました。反乱軍は敵味方を識別するために眉を赤く染めたので赤眉軍と呼ばれます。折悪く当時山東地方では天候不順が続き飢饉になっていたため赤眉軍は数万人に膨れ上がりました。22年王莽は十万とも号する討伐軍を送りますが、戦意のない新軍は赤眉軍に簡単に撃破されます。れっきとした王朝の正規軍が地方の反乱軍に負けるのですからすでに末期症状でした。

 赤眉の乱がきっかけとなり、支那全土に反乱の火の手が上がります。その中で有力なものに荊州(現在の湖北・湖南省)の緑林軍と河北の銅馬軍がありました。怒りに任せて反乱を起こした赤眉軍と違い、緑林・銅馬の勢力はより利口でした。最初は農民反乱から始まったものの、正当性を訴えるため漢王朝に所縁のある南陽郡の大豪族劉玄を盟主に祀り上げます。劉玄は更始帝と名乗りました。この頃から緑林軍には劉縯(りゅうえん)、劉秀兄弟など漢室所縁の豪族たちが参加し豪族連合の形になっていきます。

 王莽は、赤眉より緑林の方を重大視し一族の王邑らに率いられた40万の大軍を討伐に送り込みました。23年、昆陽の戦いで新軍は大敗、その勢いをもって緑林軍は新の首都長安のある関中盆地に雪崩れ込みます。23年春、王莽は乱戦の中で討ち取られ新王朝はわずか一代で滅びました。最初、赤眉軍更始帝に帰順していましたが、更始帝の論功行賞に不満を抱き結局は自分たちも漢室所縁の劉盆子を担ぎ出し緑林軍と対立します。このころすでに呂母の存在はなくなっており、死亡したか引退したかは不明です。当時赤眉軍を指導していたのは徐宣、樊崇らでした。

 緑林軍は寄せ集めの雑軍に過ぎずまともな政治などできませんでした。更始帝自身も無能で部下を統御できなかったので離反する者が相次ぎます。緑林軍の有力武将王匡が赤眉軍に投降したのをきっかけとして赤眉軍は関中に攻め入りました。どちらも雑軍ながら勢いは赤眉軍があり更始帝もまた赤眉軍に殺されます。

 そして予想通り、赤眉軍にも統治能力がなかったので長安を維持できなくなりました。膨大な兵士の食糧を求めて中原に向かった赤眉軍は、その頃緑林軍から分かれて別行動をとっていた劉秀の武将馮異(ふうい)に待ち構えられ27年河南省洛寧県で壊滅的打撃を受けました。赤眉軍の敗残兵はそこから宜陽に逃亡しますが、劉秀軍の本隊が布陣しているのを見て諦め投降しました。その後樊崇らは再度挙兵しようとして発覚、誅殺されます。これで赤眉軍は完全に消滅しました。

 あっけない赤眉軍の最期でしたが、とはいえ赤眉の乱が無ければ劉秀が台頭する事もなかったはずです。その意味では後漢王朝誕生のきっかけは赤眉の乱だったとも言えます。

 次回は、後漢王朝をうちたてた劉秀の行動についてもっと詳しく見てみましょう。タイトルは昆陽の戦いです。