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前漢帝国の興亡Ⅰ    漢の高祖劉邦   (前編)

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                  ※新潮文庫 「項羽と劉邦」(司馬遼太郎 著)より
 
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 紀元前221年、戦国時代の支那大陸を統一した秦王政は自らの帝国が永遠に続く事を願って始皇帝と名乗ります。しかし過酷な法家思想による専制支配は長く続かず統一国家はわずか三代14年で滅びました。
 
 始皇帝は天下統一を果たすとそれまでの王を超える皇帝の権威を示すため各地に巡幸しました。会稽あるいは下相(江蘇省徐州の東南100キロあたり)での出来事ともいわれますが、始皇帝の大行列を丘の上から眺めていた一人の若者が突然叫びます。
 
 「我取って代わるべし!」
 
 隣で見ていた彼の叔父は仰天し「一族皆殺しになるぞ!」と慌てて彼の口をふさいだそうです。この若者の名を項羽(羽は字、本名は籍)、その叔父を項梁といいました。かつて秦に滅ぼされた楚の名族出身で、項羽の祖父項燕は滅びゆく祖国を支え秦の大軍と戦って殺された楚の将軍でした。
 
 
 一方、秦の首都咸陽に徭役で駆り出されていた時始皇帝の行列を見かけた一人の男は「大丈夫たる者、ああ成りたいものだなあ」と感嘆したそうです。この男の名を劉邦と呼びます。
 
 
 司馬遷の記した史記に載ってるエピソードですが、後に秦末の混乱期を台頭し天下を争う二人の英雄の性格を上手く言い表していて興味深い話です。
 
 
 
 
 彼らの活躍を描く前にまず一つの事件から書き起こさなければなりません。紀元前209年7月といいますから、始皇帝が巡幸先で崩御し二世皇帝が即位した直後のことです。
 
 
 徐州の南100キロ足らずの大沢郷というところが舞台でした。徭役で駆り出された農民の一団が長雨にたたられその場に立往生します。秦の法律では期日までに咸陽に到着しなければ全員死刑でした。どうせ殺されるなら一か八か立ち上がって反乱をおこそうという気分を農民たちが持ったとしてもおかしくありません。農民たちは引率する秦の役人を殺し秦に反旗を翻します。この支那史上初の農民反乱の指導者を陳勝呉広といいました。
 
 
 文字通り鋤鍬を武器とした蜂起でしたが、秦の専制支配で人心が既に離れていたのでしょう。反乱は燎原の火のように広がり各地で秦の討伐軍を破る勢いでした。 陳勝呉広の乱は、反秦の志を持つ各地の野心家たちを糾合します。会稽郡呉県(江蘇省蘇州市)では、項梁と項羽が郡太守を斬って立ち上がりました。一方、徐州の北70キロの沛県(江蘇省徐州市沛県)でも亭長という田舎の警察署長のような卑役についていた劉邦が、周囲に推戴されこれも県令を斬って自立します。この時劉邦48歳。
 
 
 劉邦という人物は貧しい農民から立ち上がって天下を取るという大出世を成した人物だというイメージがありますが、調べてみるとある程度の土地をもった小地主の息子だったようです。若いころから任侠の道に投じ家業を嫌い町をふらついていました。そんなときに劉邦と任侠の契りを結んだのが狗肉売りの樊噲(はんかい)、葬儀屋の周勃、幼馴染の盧綰(ろわん)、県令の御者をやっている夏侯嬰(かこうえい)らでした。
 
 一方、県の書記をしていた蕭何(しょうか)や獄吏の曹参(そうしん)らは同郷の劉邦を保護し陰に日向に助けます。
 
 
 陳勝呉広の乱をうけて地方の顔役である劉邦を推戴し混乱期に当たろうと考えたのは蕭何らだったといわれています。漢創業の功臣たちがこの時期に劉邦のもとに集まってきていたのは面白いですが、県令にその有能ぶりを認められ中央の役人に推挙しようと言われた蕭何さえ秦帝国の行末を見限っていた事実は興味をそそられます。
 
 
 
 陳勝らの挙兵から二カ月後、江南で兵をあげた項梁らは精兵八千を率い反乱に合流すべく長江を渡りました。しかし一時は秦の首都咸陽を脅かすほどだった反乱軍も秦に章邯(しょうかん)という名将が登場した事により雲行きが怪しくなってきます。
 
 章邯は少府という租税を扱う文官でしたが、祖国の危機に始皇帝の陵墓建設に駆り出されていた囚人二十万を赦して軍隊にする事を献策して容れられ自ら将軍となって討伐に当たりました。
 
 そのころ陳勝は楚の旧都陳で即位し盟友の呉広を仮王としていましたが、内紛で呉広は誅殺され陳勝自身も部下に殺されわずか半年で反乱は瓦解しました。
 
 
 陳勝らの自滅で図らずも反秦の盟主的立場に立たされた項梁は、そのころ自軍に加わった范増(はんぞう)の策を採用し羊飼いをしていた楚王の末裔を探し出し懐王と名乗らせました。項梁は楚の復興を大義名分にして秦に対抗しようというのです。項梁は武信君と名乗り傀儡の楚宮廷とは一線を画しました。このころ沛公劉邦も手兵二千を率いて項梁軍に加わります。
 
 
 反秦勢力の盟主となった項梁でしたが、紀元前208年章邯に定陶で敗北し戦死してしまいました。項梁の軍は甥の項羽が引き継ぎますが、皮肉なことに項梁が作った楚の傀儡政権はかつての楚の旧臣たちが集まり宮廷を成していました。楚の宮廷を主導するのは項氏よりも名門貴族であった宋義。項梁健在の時には彼に一目置いていた宋義も若造の項羽を侮り項羽から実権を奪おうとします。
 
 宋義は、諸将を集め最初に関中(秦の首都咸陽を含む函谷関以西のいわゆる関中盆地)に入った者を関中王にすると宣言しました。一方、主力軍を率いる項羽に対しては関中とは別方向である黄河を渡った河北の趙の救援を命じます。
 
 そのころ章邯率いる秦の主力軍三十万は秦末に再興した趙の都邯鄲に近く当時趙王がいた鉅鹿を包囲していました。この鉅鹿攻防戦が反秦闘争の天王山になる事は衆目の一致するところでした。
 
 
 項羽は七万の兵を率い北上しますが、黄河を渡る前に宋義が同じく秦末に再興した山東の斉と通じている事実を知り激怒します。急遽楚の都彭城(徐州市)に取って返した項羽は裏切り者の宋義を一刀のもとに斬り殺しました。
 
 
 この暴挙に震え上がった楚の諸将は以後項羽の威を恐れ唯々諾々と従うようになります。項羽に実権を取り戻す范増の策だったともいわれますが真相は分かりません。ともかく項羽は懐王を再び傀儡の地位に戻し楚軍の主催者となりました。
 
 
 項羽自身も鉅鹿が天王山であるという認識は持っていましたから、混乱を治めると再び軍を率い北上します。黄河を渡った時項羽は兵船をすべて焼き払わせ背水の陣の覚悟を将兵に持たせたといわれます。鉅鹿は秦の大軍に十重二十重に包囲されていました。
 
 項羽は、そこへ自ら先陣を切って突撃します。風のように襲いかかった楚軍は、遮二無二秦軍の陣地を陥れ次々と敵を求めて動き回りました。項羽率いる楚軍の底しれぬ武勇に大軍であった秦軍は混乱します。
 
 このころ章邯は、功績をあげすぎた事で秦の宮廷から疑われて嫌気がさしていたため戦意を失っていたともいわれます。章邯は側近の勧めで項羽に降伏しました。
 
 
 項羽は意外にも章邯の降伏を許し命を助けます。項羽という人間は敵対する者には容赦しませんが降伏し哀れみを乞う人物に対しては優しいという意外な一面を持っていました。
 
 
 ともかく秦の主力軍を撃破した事は項羽の威勢をいやがうえにも増しました。戦後項羽のもとに伺候した趙の実力者陳余、張耳もその他の諸将も項羽の威を恐れさながら臣下のようであったと伝えられます。
 
 
 項羽は、降伏した秦軍を加え関中に向けて進軍を開始しました。しかし一足先に関中盆地に入った者がいます。別軍を率いた劉邦でした。
 
 劉邦は、自軍に参加した旧韓の宰相家の名門張良(字は子房)の知恵で防備の固い函谷関を避け、裏口に当たる武関を通って関中に入るルートをとりました。
 
 
 次回は河南を転戦し先んじで関中に入った劉邦の苦闘、項羽との対立、鴻門之会、楚漢の激闘を描きます。