鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

陳勝・呉広の乱で農民が反乱に踏み切った理由

 世界史で習ったので覚えている人もいるでしょうが、支那大陸最初の統一王朝秦滅亡の原因となった反乱として有名ですよね。知らない人も多いと思うので簡単に説明すると、秦は過酷な法治政治で人民を弾圧し不満が蓄積していました。どんな理由があろうと法律に反すれば厳しい罰則が科せられ酷い場合は死刑になります。秦の始皇帝は土木好きで自身の王宮である阿房宮、自分の死後埋葬される始皇帝陵、北方の異民族匈奴を防ぐための万里の長城建設など全国各地の農民を徴発し工事に従事させました。また辺境の守備のためにも各地から農民を兵士として強制的に集めます。

 陳勝呉広という人は日雇いで生活していた貧しい農民出身だったとも、こういった農民を労役に引率する小役人だったともいわれます。二人を含めた一行は漁陽(現在の北京辺り)の辺境守備に駆り出され現地に向かっている途中でした。ところが現在の安徽省宿州市にあった大沢郷というところで長雨に遭い足止めを食らいます。このままでは漁陽に決められた期日までに到着できそうもありません。秦の法律では期日までに現地に到着しなければ斬罪に処せられるため、自棄になった陳勝呉広は仲間の農民と語らい引率の秦の役人を斬り秦に対する反乱に踏み切りました。世間の不満が蓄積していたのでしょう。この反乱に各地の不満分子が多数参加したため大規模化し秦の地方軍を撃破するまでになりました。

 これが世にいう陳勝呉広の乱ですが、秦は対応に苦慮し疲弊します。そして反乱に呼応し後に秦を滅ぼす項羽劉邦らが挙兵したためついに秦は滅亡に至りました。

 ところで、どうせ死刑なるなら逃亡するというまでは分かるんですが、巨大な秦に対抗する反乱に至るか疑問に思いました。というのも後に前漢王朝を開く劉邦は似たようなケースで逃亡し山賊になったことがあったのです。この時は劉邦と気脈を通じる同郷の蕭何(しょうか)が当時沛県の役人だったため、県令(県の長官)にとりなし不問にしたのですが、下手すると劉邦は秦の討伐を受け殺される可能性すらありました。

 このように、死刑は怖くても反乱に踏み切るにはかなり心理的ハードルが高いのです。いくら陳勝呉広が説得しても農民たちが同意するかは賭けでした。秦は戦国の七雄という斉や楚などの列国を武力で滅ぼした強大な敵でしたから。ここで私は考えたんですが、もともと彼らは秦に対する反感があったのではないかと。

 というのも、項羽劉邦と同じく陳勝呉広の乱に参加した者たちも全員旧楚国の出身でした。過去記事でも書いたんですが、秦は楚を滅ぼした後過酷な統治を行い楚の人々の恨みを買っていたのです。中には親や兄弟を秦軍に殺された者も数多くいたと思います。有名な言葉で「たとえ三戸(数が少ないことと例え)となろうとも秦を滅ぼすのは楚たらん」というものがあります。秦は天下統一に当たって各地で暴虐を行いましたが、楚国に対しては特に過酷に対処したため恨みもそれだけ大きかったのでしょう。

 では劉邦は同じ楚人ながらどうして秦帝国に対して反乱に踏み切らなかったかという疑問も生じると思います。ただ史記などを読めば分かりますが、劉邦は恨みよりも命あっての物種と合理的に考える人で、そういった選択肢はなかったのでしょう。実際、劉邦が秦に対する反乱に参加したのも多分に成り行きだったという印象が強いです。

 陳勝呉広は勢いがあるうちは良かったんですが、所詮人望がなかったためわずか半年で秦に鎮圧され最後は二人とも仲間に殺されました。一方、劉邦は有能な文官である蕭何や元韓王国の宰相一族という名門の張良、もともと項羽の部下だった名将韓信など数多くの有能な人材の支持を得てついには天下を統一しました。こうしてみると劉邦はやはり天下を統一する器だったのでしょうね。

 支那の統一王朝が滅亡するときはだいたい農民反乱から始まるケースが多いですが、その反乱が成功し天下を統一できるかどうかは反乱指導者の器次第だという事です。