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春秋戦国史14  秦の始皇帝(終章)

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 戦国時代中期、諸侯が王号を称し始めたことで完全に空気となった周王朝洛邑近辺を領するだけの弱小国に落ちぶれ、さらに東西に分裂するという末期症状を呈します。BC256年、韓と交戦中の秦軍の行軍を妨げたため秦の昭襄王の怒りを買い討伐を受けました。結果、領土を召し上げられ滅亡。伝国の秘宝、天命を表すと云われる九鼎も秦に移されます。これは天命が秦に移った事を示す象徴的な出来事でした。

 秦王政は、BC246年即位しますがこの時14歳。丞相(宰相)の呂不韋は仲父の称号を得て、さらに相国へと昇進しました。相国というのは非常設で廷臣としても最高位の顕職です。日本で言えば江戸時代の大老律令体制下の摂政・関白にあたりました。位人臣を極めた男が次にやる事と言えば名誉欲です。呂不韋は3000名にも及ぶ学者を集め、現代の百科事典にあたる呂氏春秋を編纂します。呂不韋はこの書物が自慢で、「この書物の文章を一字でも増やしたり減らしたりした者には千金を与える」と豪語したそうです。

 ところが、呂不韋の栄華は長く続きませんでした。秦王政の母趙太后との不倫を避けるために彼女に与えた巨根の男嫪毐(ろうあい)に野心が芽生えたのです。趙太后との間に生まれた不倫の子を秦王に据え自分は外戚として天下に号令しようと考えます。そのためには邪魔な政を排除しなければなりません。趙太后がこの陰謀を知っていたかどうかですが、おそらく知っていただろうと思います。嫪毐に溺れ切った彼女に現実を見る目は残っていませんでした。

 この陰謀は宮中でひそかに練られましたが、成人に達していた秦王政に漏れないはずがありません。BC238年政は機先を制して嫪毐を逮捕すると車裂の極刑に処します。趙太后との間に生まれた二人の子も斬られました。流石に実の母を殺すわけにはいきませんから、離宮におし込めます。呂不韋連座は免れませんでした。政が出生の秘密を知っていたかどうかは分かりません。これまでの功績で死罪だけは免れた呂不韋は、すべての官職を解かれ領地洛邑に蟄居となります。

 引退はしたものの、呂不韋の元には各国から使者が訪れました。秦王政は、呂不韋を生かしておけば反乱を起こす危険性があると考えます。BC236年、秦王政は呂不韋に厳しい詰問状を送り蜀への流罪を命じました。絶望した呂不韋は毒を仰いで自害します。野望多き大商人の末路でした。ちなみに漢の高祖劉邦正室太后呂不韋の一族であるとも云われます。

 呂不韋の死で重しの無くなった政は、親政を始めました。独裁です。政は法家思想に共鳴しており李斯(?~BC208年)を登用し丞相としました。李斯は有能で法治主義を徹底します。秦が各国を併合する過程で、秦の本土以外ではそれまでの封建制を残すべきという意見もありましたが李斯は郡県制を徹底的に主張、各国を滅ぼすたびにあらたな郡を設置し中央から官吏を派遣しました。中央集権という意味では良かったのですが、秦の厳しい法律によって押さえつけられているという庶民の恨みは深刻化します。それが秦末期の大規模な農民反乱に繋がるのです。

 国内を固めた政は、外征に乗り出します。BC230年韓の都陽翟(ようてき、新鄭から遷都していた)を攻略し韓を滅ぼすと、次の標的は趙でした。趙幽穆(ゆうぼく)王の側近郭開を買収し当時秦軍と対抗できる唯一の存在とも言うべき将軍李牧に無実の罪を着せ殺させます。李牧はしばしば秦軍も破っている名将でした。BC228年、秦は将軍王翦(おうせん)らを派遣し趙を攻めます。趙の首都邯鄲は落城し幽穆王は捕らわれました。この年を持って趙は事実上滅亡するのですが、公子の一人趙嘉が北方の代に逃れて亡命政権を建てます。代はBC220年滅ぼされるまで続きました。

 次の標的は燕でした。燕はもともと弱小国なので大した抵抗もできずあっさりと滅ぼされます。魏は戦国四君の一人信陵君を失い弱体化していました。ただ魏の都大梁(現在の開封)は中原の真っただ中にある経済の中心地で人口も多く秦軍は攻めあぐねます。秦軍は黄河の水を引き入れて水攻めにし、包囲三カ月でついに陥落、BC225年魏は滅亡しました。

 残りは斉と楚です。この二国は衰えたりとはいえかつての覇権国で簡単には滅ぼせない勢力を保っていました。そこで政はまず楚を攻めるべく李信と蒙恬(もうてん)に20万の兵力を与えます。ところが楚の大将軍項燕(?~BC223年。項羽の祖父)は有能で、秦軍を撃破しました。激怒した政は、老将王翦に60万という大軍を授けて再び楚を攻めさせます。大軍に兵法なし、これだけの数の差(楚軍は10万程度)があると少々の小細工など通用しません。名将項燕の戦死と共に楚もまた滅びました。BC223年の事です。

 ただ項燕の伝説は楚の人たちの心に残りました。「項燕将軍は死んでいない」という希望的な噂も語られます。後に項梁と項羽が呉で挙兵し淮南の楚の故地に至った時人々がこぞって義軍に参加したのも項燕将軍伝説のおかげでした。「たとえ三戸となろうとも秦を滅ぼすのは楚ならん」という言葉も秘かに楚の人たちに語り継がれます。後に秦を滅ぼした項羽劉邦もともに旧楚国の人間だった事を考えると不思議な因縁ですね。

 最後に残った斉は、秦の内部工作でぼろぼろになっておりBC221年戦わずして降伏しました。秦王政はついに天下統一を成し遂げたのです。時に39歳。秦は、天下を三十六郡に分けて支配します。度量衡も統一されここに支那大陸は初めて一つにまとまったとも言えます。

 秦王政は、自分の王朝が永遠に続く事を願って皇帝という称号を名乗りました。そして自分を始皇帝とし、以後ニ世、三世と未来永劫続く事を願います。しかし皮肉な事に秦は三代で滅ぶのです。それは過酷な法の支配と大規模な土木工事、思想統制のための焚書坑儒に対する庶民の反発でした。始皇帝は、そういう現実に目を背け不老不死を求めて各地を彷徨いました。BC210年7月、行幸のさ中始皇帝は河北省沙丘で亡くなります。去年48歳。

 秦滅亡の直接のきっかけとなる農民反乱、陳勝呉広の乱が勃発するのは翌年BC209年7月の事です。




                                (完)