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昌平君の数奇な運命

 支那戦国時代、楚の滅亡関連話の一つです。

 

 秦の始皇帝が天下統一するころ、秦の重臣に昌平君(紀元前271年~紀元前223年)という人がいました。昌平君は称号で本名は熊啓。熊という氏から分かる通り楚人でした。では楚人がどうして秦の重臣になれたのか疑問に思われる方もいると思います。実は、昌平君は秦に人質となった楚の太子完の子供でした。秦の昭襄王(在位紀元前306年~紀元前251年)は人質となった楚の太子完に自分の娘を与え正室にしたのです。これを見ても、秦は人質とはいえ粗略に扱わなかったことが分かります。

 昭襄王は秦王政(後の始皇帝)の曾祖父に当たりますから、政にとって昌平君は大叔父になるわけです。昌平君の父太子完は紀元前263年父であった楚の頃襄王が病に倒れると秦に無断で帰国します。脱出に成功した完は即位して孝烈王となりました。この時昌平君は母である秦の公女と共に残されます。当然激怒した秦でしたが、楚は代わりに頃襄王の別の庶子を人質に送ってきたので丸く収まります。この庶子も秦で養育され昌文君となりました。

 実父に見捨てられた昌平君でしたが、同じ楚王室出身で叔母に当たる華陽夫人に養育されます。華陽夫人は昭襄王の太子で後継者となった安国君(のちの孝文王)の継室となっていました。昌平君は父方で楚の王室と繋がり、母方で秦王室の血を引いていたのです。楚人とはいえ秦で生まれ成長したので意識的には秦人だったと思います。 

 昭襄王の孫にあたる荘襄王(孝文王の庶子)の時代に初めて出仕したそうです。紀元前246年秦王政が即位すると御史大夫(三公の一つで諸侯の監察を行う)になりました。紀元前238年嫪毐(ろうあい)の乱がおこると叔父昌文君と共に鎮圧に尽力、紀元前237年乱に連座して相国呂不韋が罷免されると右丞相に任命されました。 

 ここまで見ると順風満帆の人生ですが、紀元前226年楚の攻略方針を巡って王翦(おうせん)を擁護したため、秦王政の不興を買い罷免されます。王翦は楚の平定に60万人の兵力が要ると主張し、20万人で十分だと主張する李信や蒙恬と対立したのです。王翦と共に職を解かれた昌平君ですが、秦が楚から奪っていた領土陳(河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため楚に所縁のある昌平君に鎮撫の役目が与えられました。あくまで個人的感想ですが、秦王政や側近の李斯(後に丞相となる)は楚人である昌平君を心の底からは信用していなかったのではないかと思います。鎮圧できれば良し、鎮圧できず陳人に殺されても構わないというのが本音だったかもしれません。 

 ところが運命はここで大きく転換します。楚攻略に20万人の兵力で十分と大言壮語して出陣した李信や蒙恬らは楚の名将項燕(項羽の祖父)の奇襲を受け大敗するのです。項燕は勝利の勢いをかってかつての旧都だった陳までも奪回します。昌平君は進退窮まりました。秦の法律では、たとえ不可抗力であっても任務を遂行できないときは死刑が待っていました。この過酷な法律が庶民の怨嗟の的となり各地で反乱が起こって秦滅亡の原因となるのですが、李斯たちがこれを狙っていたとすればかなり狡猾です。 

 昌平君は一か八かの賭けにでます。陳を奪回した項燕将軍の元に出頭するのです。項燕も昌平君が楚王室所縁の人物であることは知っていました。ただ現在の楚王である負芻(ふすう)はクーデターで王位を奪っていた為、彼のもとに行けば殺されるだろうと危惧します。そこで項燕は昌平君を食客として匿う事にしました。 

 秦では李信、蒙恬らが失敗したので秦王政は改めて王翦に出馬を請います。王翦はかつての主張通り60万の兵を与えられ出陣しました。大軍に兵法無しと言われる通り、項燕率いる楚の正規軍は多くても10万。楚に勝ち目はありません。前記事では史記の記述通りこの時項燕が敗死し楚が滅亡したと書きましたが、本当はもう一悶着あったみたいです。

 楚各地で秦の扇動で反乱が起き、不安になった楚王負芻は項燕率いる楚の正規軍を呼び戻します。この時秦軍の追撃を受け壊滅したところまでは同じです。ただ、この時は項燕も昌平君も戦死しておらず脱出に成功したと言われます。正規軍が壊滅したため楚王負芻は秦軍に降伏、春秋時代以来の歴史を誇る南方の大国楚は滅亡しました。王翦は60万人の将兵を養うため楚各地で無理な兵糧調達を繰り返し楚人の反感を買います。

 この様子を見ていた項燕は紀元前223年残兵を集め反秦の挙兵をしました。秦の過酷な占領政策で怒りが沸騰していた楚人が多数参加したそうです。項燕は楚統合の象徴として昌平君を楚王に祭り上げます。この時の昌平君の気持ちが分かりませんが、やけっぱちになっていたという説、あるいは祖国楚の民が苦しむことに我慢できず義憤にかられ立ち上がったなど様々な説が言われます。 

 ただ所詮は寄せ集めの兵。いくら項燕が名将とはいえ秦の正規軍に敵うはずもなく挙兵は失敗、乱戦の中昌平君は戦死しました。楚人でありながら秦で成長し、最後は祖国楚の地で散った昌平君、本当に数奇な運命でした。項燕もこの時自害したと伝えられますが、項燕は楚人の希望となり伝説となりました。一度は生き延びるのに成功したことから、「項燕将軍は死んでいない。時が来れば再び立ち上がり我らが楚国のために戦ってくれる」という声が無くなることはありませんでした。 

 後年、項燕の子項梁と孫項羽が反秦の挙兵をしたとき多くの楚人が参加したのは救国の英雄項燕伝説のおかげだったと言えます。