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竇猗房(とういぼう)、数奇な運命の皇后

 宮城谷昌光氏の短編小説に『花の歳月』という作品があります。私の中では『鳳凰の冠』と共に宮城谷作品では五本の指に入る傑作短編だと評価しています。宮城谷さんはどんな主人公でも爽やかに書きすぎる悪癖がありますが、この二作に関してはそれが成功しています。花の歳月も全編に爽やかな風が吹き渡る美しい作品です。

 花の歳月の主人公竇猗房(とういぼう 不明~紀元前135年)は実在の人物で前漢三代皇帝文帝の皇后になった女性でした。花の歳月の元ネタは司馬遷が記した不朽の名作、史記外戚世家です。史記によると竇猗房は現在の河北省南東部から山東省北西部にまたがる清河郡観津に生まれました。竇家は名家ではあったものの秦末から楚漢戦争の影響で没落し猗房の生まれたころは貧しい生活を送っていました。

 猗房には兄長君、弟広国がおり、弟広国とは特に仲が良かったそうです。幼少期二人で遊びまわりある時広国が姉のために桑の実を取ろうと木に登り落ちました。痛みにこらえながらも広国は姉に桑の実を渡し二人でそれを食べ口の中が真っ黒になって笑いあったというエピソードもあります。

 漢の高祖劉邦が天下を統一しようやく世の中に平和が戻りました。猗房は近所でも評判の類まれなる美少女だったといわれ、竇家では彼女を後宮の官女に差し出すことで貧乏生活を免れようと考えます。竇家は落ちぶれたとはいえ名門だったので後宮入りはすんなり決まりました。何も知らない猗房は両親に言われ長安に出発の日が来ました。弟広国は大好きな姉と別れるのを嫌がり泣いたそうですが、猗房は広国の髪を洗い優しく櫛で整え最後の別れを惜しみます。

 こうして後宮にあがった猗房ですが、彼女の知らない所で悲劇が起こりました。弟広国が何者かにさらわれ行方不明になったのです。竇家は必死に探したそうですがついに見つかりませんでした。情勢不安定な土地では誘拐が日常茶飯事だったのでしょう。猗房は後宮にあがったものの、その他大勢であることに変わりなく無為の日々を過ごします。当時高祖劉邦は亡くなり、呂太后の専横が始まっていました。ある時、各地に封じてある王(劉邦の息子たち)に五人ずつ官女を賜ることが決まります。猗房は仲の良い宦官に故郷に近い趙王如意のもとに送ってくれるよう頼みます。ところが宦官はそれをすっかり忘れ、趙ではなく辺境の代行きの名簿に猗房を加えてしまいました。

 歴史に詳しい方ならピンと来たと思いますが、趙王如意の母は劉邦が最も寵愛した戚夫人。そのため呂太后の憎しみを受け惨たらしい方法で殺されます。その息子である如意も毒殺されました。呂太后は戚夫人の両手両足を切り落とし目を潰し便所に落として人豚と呼んで罵ったそうです。これを見た息子の恵帝は優しい性格だっただけに衝撃を受け、以後酒色におぼれ早死にします。宦官はそういう宮中の空気を察し趙に猗房を送れば危ないと思って名簿から外したのかもしれません。猗房は知らない所でまたしても命を免れました。

 諸王に送り込まれた官女も決して歓迎されませんでした。呂太后は呂氏一族が天下を奪うために劉氏に所縁のある諸王の落ち度を見つけ取り潰そうと虎視眈々と狙っていたからです。猗房が送り込まれた代王、劉邦の四男劉恒は楚の母薄夫人がほとんど劉邦に愛されなかったため呂太后も警戒していませんでした。宦官は代なら安全だと思って猗房を名簿に加えたのでしょう。薄夫人の母は戦国七雄の一つ魏の公室に所縁の人物でしたが、国が滅び薄という庶人と結婚し薄夫人を生みました。成長すると秦末の混乱期群雄の一人西魏王魏豹の側室として後宮に入れられますが、美しくはあっても大人しい性格だったため魏豹にほとんど顧みられませんでした。その後魏豹は劉邦に滅ぼされ薄夫人も戦利品としてそのまま劉邦後宮に入れられます。

 ある時、薄夫人は仲の良い側室たちと誰が一番早く劉邦の寵愛を受けるか話し合ったそうです。ところがいつまでも薄夫人は無視され続け、側室たちが「あの人だけは陛下の寵愛を受けられなかったね」と笑い合っていたそうです。これを聞いた劉邦は哀れに思いその日薄夫人を召し出します。そしてただ一度の寵愛で薄夫人は身ごもりました。その時の子供が代王劉恒です。劉恒を代王にしたのも、代は匈奴に近い危険な土地で死ぬ可能性も高かったため劉邦にほとんど愛されなかった劉恒に白羽の矢が立っただけでした。薄夫人は、息子が代に出立すると自分も同行します。おそらく母子ともども代の地で生涯を終える気だったのでしょう。彼女にとって息子だけが唯一の生き甲斐でした。

 最初、薄夫人も代王劉恒も呂太后から送り込まれた官女たちを警戒します。自分たちを監視するためのスパイと思ったのです。ところが猗房は聡明で誠心誠意仕えたためいつしか劉恒は心を開くようになります。そして五人のち猗房だけを寵愛しました。薄夫人にも気に入られようやく幸せを掴めたのでしょう。間もなく二人の間には娘と二人の息子が生まれました。

 時代は猗房の知らない所で大きく動きます。各地に封じられた劉邦の息子たちは呂氏一族の圧迫政策である者は殺され、ある者は落ち度を咎められ取り潰されました。そんな中、呂太后が亡くなります。漢朝創業の功臣陳平、周勃らは彼女の死をじっと待っていました。そしてそれを確認すると一気に動き出します。兵士を率いた周勃が宮中に乗り込み、呂氏一族をことごとく誅殺しました。このクーデターは成功しましたが、後を継ぐ皇帝を誰にするかで紛糾します。群臣会議の結果、外戚が呂氏一族のように専横の可能性がない代王劉恒が選ばれました。

 都から皇帝就任を懇願する使者が来ても、呂太后の罠ではないかと劉恒も薄夫人も警戒したそうです。しかし何度も来る使者に根負けしてついに決断します。こうして劉恒は長安に帰還し即位しました。すなわち前漢第三代皇帝文帝です。実は二代恵帝と文帝の間に二人の幼い皇帝がいるのですが、これは呂太后が立てた傀儡皇帝ですので正式な皇帝には数えません。

 夫劉恒が皇帝に即位したので、猗房も皇后に立てられました。新しい皇帝が立った事、その皇后竇氏は清河郡観津の出身であることを聞いた若者がいました。驚いた若者は、「もしかしたら自分の姉かもしれない」と主人に告げます。広国でした。実は広国は誘拐され奴隷に売られていたのです。十余家に転売され各地を転々としました。河南省の宜陽にいた時、炭作りをしていたそうですが休憩中突如崖が崩れ仲間の奴隷たちが生き埋めになります。一人離れた場所で休んでいた広国だけが助かりました。この奇跡に自ら占ってみると『まもなく侯になる』と出ました。広国は奴隷の自分が侯になれるはずがないと一笑に付します。

 猗房が皇后になった時、広国は偶然にも同じ長安にいました。新皇后が自分の姉かもしれないと主人に話すと、驚いた主人は広国を奴隷から解放し朝廷に訴え出ます。普通奴隷を使役するような者は悪人というイメージが強いですが、この主人は部類の善人だったのでしょう。意地悪な見方をすると皇后の縁者を奴隷としてこき使っていたと発覚すると重い処罰をされるのでそれを恐れたという見方もできますが、まあここでは善人として話を続けましょう。

 猗房は訴えを聞いて弟広国に違いないと思います。しかしこういう天一坊のような山師は当時から数多く居たようなので、念のために文帝自ら広国を引見して話を聞くことにしました。広国は堂々と皇帝の下問に答え幼少期の桑の実のエピソード、猗房が出立の時自分の髪を洗ってくれたことを話します。帳の影で聞いていた猗房は思わず駆け出しました。大粒の涙をうかべ「広国、広国」と抱きかかえます。広国もこれに応え号泣しました。この光景を見ていた群臣たちで涙を流さなかった者はいなかったそうです。

 こうして広国は皇后の弟として侯に立てられました。占いは当たったのです。陳平、周勃らは竇氏の兄弟が専横することのないように賢者を教育係にしました。そのおかげで、広国も後に召し出された兄長君も謙虚で慎ましい君子に育ったそうです。文帝は名君として名高い皇帝ですが、それには皇后猗房や、補佐をする竇兄弟の力もあったと思います。猗房の生んだ長男劉啓は後に第四代景帝として即位します。

 ただ晩年病気で失明した竇太后(猗房)はわがままで息子景帝を困らせたそうですが、国家を傾かせるほどではなかったのでこの二代の御代は文景の治と言って漢王朝が善政で良く治まった時期として称賛されています。