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前漢帝国の興亡Ⅰ    漢の高祖劉邦   (後編)

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 楚漢の攻防は、劉邦が関中から出てきては項羽に叩かれ関中に戻って再び勢力を盛り返してはまた叩かれるといういたちごっこでした。
 
 実際の戦闘では武勇を誇る項羽にとても敵わなかったのです。そこで劉邦は、外交で項羽を孤立させる策を取ります。単体で十分に強い項羽は他国との同盟をほとんど考慮しなかったためこの作戦は効果的でした。
 もともと項羽派の英布や、項羽とは常に敵対してきた彭越もこの時の外交攻勢で味方に付きました。このころ張良と並び称される謀臣陳平が劉邦幕下に加わりました。韓信にしても陳平にしても元々は項羽の家臣でした。ところが項羽は人材を生かすということをしないため次々と有能な人材を去らせます。そればかりか唯一の謀臣と言っても良い范増さえ煙たく思うほどでしたから救いようがありません。
 
 まともに戦っては項羽に勝ち目がないと悟った劉邦は、黄河南岸の大都市に籠ってひたすら守りに徹する作戦に切り替えます。一方、韓信に別働隊を率いて魏や趙を攻撃させ楚の後方撹乱を図りました。
 漢軍の主力は劉邦が握って離さないため、韓信はわずか数千の兵しか与えられませんでした。しかし韓信は少数の軍を巧みに機動させまず山西の魏を滅ぼし、続いて趙に進軍します。この時「背水の陣のエピソード」が起こりますが長くなるので割愛します。(井陘の戦い
 
 韓信は、各地を平定してようやく大きな兵力を握るとそのそばから負けて逃亡してきた劉邦にごっそりと兵力を持って行かれるという繰り返しでしたがよく我慢したものです。それでも各地を転戦し黄河以北はほとんど独力で平定してしまいました。
 
 劣勢の劉邦は、謀臣陳平の策を採用し范増と項羽の離間を実行します。項羽の使者をわざと范増の使者と間違え明らかに范増の使者を優遇したり、楚軍内部に流言を放ったりして二人の仲を次第に裂きました。
 亜父(あほ、父に次ぐものという意味)と尊称され優遇されてきた范増老人でしたが、自分が疑われ献策しても受け入れられないと悟ると引退を申し出ます。范増は故郷に帰る途中、怒りが原因で腫れ物を悪化させ病死しました。
 
 楚漢の戦いは滎陽を巡る攻防で終始しますが、紀元前204年ついに陥落します。この時劉邦の危機を救ったのは山東方面で蠢動する彭越でした。この漁師上がりの盗賊を項羽は嫌いぬきます。決して項羽と正面からぶつからずゲリラ戦を仕掛ける彭越は、項羽の目の上の瘤でした。
 
 彭越の活躍で死地を脱した劉邦は、韓信に腹心の曹参と灌嬰(かんえい)をつけて斉を攻めさせました。また幼馴染の盧綰(ろわん)と従兄弟の劉賈(りゅうか)を項羽の本拠地楚に派遣し後方撹乱を行わせます。
 紀元前203年、韓信は兵を率いて斉を滅ぼしこれで黄河以北はことごとく劉邦陣営になりました。項羽韓信の動きを無視できなくなり将軍竜且(りゅうしょ)に二十万の兵を授け韓信を討たせます。しかし逆に濰水の戦いで韓信のために一敗地にまみれ竜且は捕えられ斬刑に処されました。
 
 楚漢の戦いは、項羽のいる戦場では楚の圧勝、しかしそれ以外では次第に劉邦陣営が勢力を伸ばしつつありました。
 
 同紀元前203年。両雄は河南の広武山で対峙します。この時項羽は人質に取っていた劉邦の父や、妻呂氏を盾に降伏を迫ったそうですが、これは劉邦に拒否されます。
 
 実は、広武山の陣地のうち漢軍側が占める山上には兵糧がたっぷり蓄えられており、一方楚軍の陣地はそれがありませんでした。後方の彭城から兵糧を運ぼうにも途中を彭越のゲリラ兵に襲われるため次第に兵糧に困るようになっていきます。もちろんそうなるように劉邦が食糧庫のある山上を先に占領していたのです。
  項羽は、このままではじり貧になってしまうと危惧し一旦和睦して彭城に戻る事を考え始めます。一方、対峙に疲れ果てている漢も項羽の申し出は渡りに船でした。
 
 両軍は、広武山を国境としその西を漢が、東を楚が治める事となりました。和睦が成立すると項羽は兵を率いて戦場を去りました。劉邦も兵を西に返そうとします。
 ところが、張良と陳平は共に劉邦の袖をとらえて進言しました。
 「今こそ、天が与えた好機です。このまま楚軍を追撃なさいませ」
 信頼する謀臣二人が同じ事を進言したので劉邦は関中に戻るのを止め楚軍を追いました。同時に彭越と韓信にも項羽追撃に加わるよう使者を出します。
 
 しかし二人は言を左右にして出兵を渋りました。張良と陳平は彼らが恩賞の約束がないから渋っているのだと悟り、劉邦に進言します。最初は激怒していた劉邦ですが、二人の進言を容れ渋々ながら彭越には梁の地を、韓信には斉を与えると宣言しました。現金な事に恩賞が約束されると両者はすぐに出兵します。
 
 恩賞を約束した時の劉邦の暗い顔を眺めていた張良は、韓信も彭越も先は長くないと思ったと伝えられます。
 
 大軍に兵法なしと言われます。数十万に膨れ上がった劉邦軍は、疲弊しきっていた楚軍を追撃しついに彭城を落としました。局所的にはさすが項羽の武勇で敗北する事もありましたが、数に物を言わせて押し切ります。
 項羽はひとまず江南に落ちて再起を図ろうと南下し垓下というところで漢軍に包囲されました。
 
 この時城を囲む漢軍の中から懐かしい楚の歌が聞こえてきました。それを聞いた項羽は、故郷楚の地はことごとく漢によって占領されたのだと嘆きます。(四面楚歌)これは陳平の策だったともいわれますが、ともかく項羽の抗戦意欲を削ぐ効果は抜群でした。
 
 その日の夜、別れの宴を開いた項羽史記にも記されている有名な詩を吟じ舞います。
 
 「力山を抜き 気世を蓋う
 時利あらずして 騅逝かず
 騅の逝かざる 奈何すべき
 虞や虞や 若を奈何せん」
 
 これには群臣も皆涙を流しました。項羽は愛妾虞美人を刺殺し手勢八百あまりを引き連れ夜陰に紛れ城を出ます。
 夜明けには漢軍も項羽の脱出に気付き灌嬰が五千騎の騎兵を率いてこれを追撃しました。烏江のほとりに達した時項羽主従はわずか二十八騎に減っていたと伝えられます。
 
 烏江の亭長は「今長江の渡し船はここにしかありません。項王には江東に逃れられ再起を計られませ」と勧めました。
 しかし、項羽は亭長の申し出に感謝しつつも「かつて私は江東の若者八千を率いて長江を渡った。しかし今私一人しかいない。江東の人々は再び私を王として迎えてくれるかもしれないが、何の面目があって彼らに会う事が出来ようか?」と答えます。
 そして、礼として名馬騅を亭長に与え再び漢軍の中に突撃しました。
 
 項羽は一人で敵兵数百人を倒しますが、手傷を負いついに最期の時を迎えます。敵兵の中に旧知の呂馬童を見つけると
「漢は私の首に千金の恩賞と一万戸の封邑を掛けているという。旧知のお前に手柄を授けてやろう。」
と自ら首を撥ねました。
 
 ここに不世出の英雄項羽は亡くなりました。恩賞に目がくらんだ兵士たちは項羽の死体に群がり結局呂馬童ら五人がそれぞれ項羽の死体の一部を持ち帰ります。恩賞は五等分され彼らに与えられたそうですが、人間のあさましさを見た思いがします。劉邦は、項羽の死体を一つに集めると丁重に葬ったと伝えられます。
 
 こうして紀元前202年、劉邦は天下統一し皇帝に即位しました。すなわち前漢後漢合わせて四百年の治世の始まりです。
 国号はそのまま「漢」としました。王朝の創始者劉邦は死後、高祖皇帝と諡(おくりな)されます。