楚の懐王は最初に関中に入った者を関中王に封ずると宣言しました。楚の主力軍を率いる項羽は黄河を渡って河北で秦の正規軍と戦っていたため貴重な時間を潰しました。ただ最精鋭の軍隊を持っていたため秦軍との戦闘が解決しさえすればもっとも有利であったともいえます。
張良は若年ながらかつて始皇帝の暗殺を試みたほど胆力を持った人物でしたが、劉邦はこの張良を気に入り彼の言う事はほとんどすべて受け入れます。張良は河南地方に土地勘があるためにまともに函谷関を突破するのは不可能だと悟り一旦南の南陽地方に出てから搦め手の武関から関中に入る策を進言しました。
始皇帝亡き後、暗愚な二世皇帝胡亥を操って国政を壟断していた宦官趙高は、敗戦の責任を皇帝に問われる事を恐れ逆に兵を率いて宮廷に乱入しました。混乱の中二世皇帝は自殺します。
趙高は、胡亥の兄の子公子嬰を担ぎ出しもはや皇帝足る実態なしとして秦王として即位させました。しかし逆に公子嬰は乱臣趙高を誅殺し自立します。結果論ですが、二世皇帝に胡亥ではなく公子嬰がなっていれば秦は滅びなかったかもしれないと思えば惜しい気がします。
秦本国が大混乱に陥る中、武関を降して関中に入った劉邦軍は十万に膨れ上がっていました。首都咸陽を望む覇上に布陣します。
劉邦は、略奪で人心を失うのを恐れ秦の府庫を封印し軍を覇上に返します。ただこの時蕭何は宮中の書庫にあった戸籍、秦の法令、地図などを持ち出しました。彼の趣味という一面はありますが、この時の書類が後の漢帝国建国に大いに役立った事は言うまでもありません。
項羽は四十万という大軍で函谷関へ達しようとしていました。大軍に膨れ上がったため兵糧が不足がちになった項羽軍では、降伏して嫌々従っていた秦兵の間に不満が渦巻きます。項羽はこの不満分子を計画的に始末する狡猾な策を実行しました。あるとき秦兵の宿営地に深夜三方から鬨の声が上がります。パニックに陥った秦兵たちは声の上がっていない一方に向けて殺到しました。しかしそこには深い崖がありました。後から後から逃げてくる者たちに押され秦兵たちは次々と崖に落ちます。夜が明けるとそこには崖をうずめた秦兵二十万の死体と、せっせと崖を埋める楚兵の姿がありました。
生き残ったのは章邯、司馬欣、董翳ら秦軍の幹部クラスのみ。この時の衝撃で章邯は精彩を欠くようになります。
ところで、項羽軍が函谷関へ迫る中関中を平和裏に手中に収めた劉邦に「函谷関を閉じてしまえば項羽は関中に入れません」と小賢しい進言をした者がありました。しかしこんな小細工が通用するはずもなく、かえって項羽の怒りを買い項羽は劉邦を殺すつもりで鴻門というところに呼びつけました。
出かければ確実に殺されます。それは従者も同様でした。そんな時項羽の叔父項伯が秘かに劉邦陣営の張良を訪ねます。かつて張良に命を助けられた事があり、彼が劉邦と共に殺されるのが忍びなく逃亡を勧めに来たのでした。
鴻門では項羽と劉邦が対面して座り、左右に張良と項伯が控えました。最初の項羽と謀臣范増の打ち合わせでは項羽の目配せで刺客が討ち入り劉邦主従を殺す手はずでしたが、張良から策を授けられた項伯が巧みにそれをかわしなかなか機会が訪れませんでした。
范増は、余興の剣の舞にかこつけて劉邦を斬る作戦に切り替えますが、今度は項伯が立ち上がり同じく剣の舞を舞って邪魔しました。
酒宴の最中、劉邦は言葉の限りをつくして自分が項羽に敵対する意思の無い事を陳弁します。そこへ劉邦の家臣樊噲が乱入し決死の覚悟で項羽を説得しました。范増は何度となく項羽に目配せしますが、この時項羽は劉邦を殺す意思を失ったのだと思います。自分に敵対する者には容赦しないが、憐みを乞う存在に対しては甘いという悪い癖が出たのです。
項羽は、咸陽に入ると降伏していた秦王子嬰を殺し財宝を略奪し宮殿に火を放ちました。その劫火は三カ月も沈火しなかったそうですから誇張があるにしても凄まじいものでした。有名な始皇帝陵もこの時項羽に暴かれ略奪されたそうです。
范増は天下を統べるためには関中の地を離れるべきではないと進言しますが、項羽は故郷に錦を飾りたかったのでしょう。彭城を中心に九郡を治め西楚の覇王を名乗ります。項羽の論功行賞には露骨な差別がありました。功績がある者でも項羽と関係が深くないものには薄く、逆に関係が深い者は優遇されました。
一方、僻地の漢中に追いやられた劉邦軍では山道を進む中次々と逃亡兵が出ます。将来性の無い劉邦を見限ったのでしょう。そんな中、最も信頼する腹心蕭何までもが逃亡したと聞いて劉邦は激怒します。追いかけて捕まえさせると劉邦は時には怒鳴り、時には泣きながら蕭何を責めました。
漢中を治める王という事で劉邦はこのころ漢王と称します。後にこれが帝国の国号となり民族の名前になるのですから面白いですね。
蕭何は、関中を上手く治め劉邦が負けても負けても兵力と兵糧を供給し続け後に勲功第一に挙げられます。
大軍で安心しすっかり弛緩しきっていた連合軍は、怒髪天を突く勢いで急行してきた楚軍に大敗し四散しました。この戦いは項羽の武勇を際立たせただけに終わりましたが、劉邦の父劉太公と妻呂氏まで捕虜になったくらいですから壊滅と言ってもよいものでした。