この時酒宴を仕切っていたのは後の大宰相蕭何で、呂公に「劉邦がそんな大金を持っているはずありません。どうせはったりですよ」と忠告したにも関わらず、劉邦を見て一目で気に入ったそうですから人生は分かりません。
劉邦は、龍顔で天子の相をしていたといわれ人相の知識があった呂公はそれを観て感心したそうです。当然どこの馬の骨か分からない男に大事な娘をやるわけですから妻をはじめ家族は大反対でした。
ところが時がたつと呂公の目に狂いがなかった事が分かります。なにしろ庶人から皇帝になったのですから。
若いころの呂雉はつつましい妻を演じていました。任侠にかぶれ家を留守がちの夫に代わり農業や家事をこなしていたそうですが、兄嫁との折り合いが悪く苦労をしたそうです。劉邦との間には息子劉盈(後の恵帝)と娘(魯元公主、趙王張耳の息子張敖【ちょうごう】と結婚)が生まれました。
劉邦が漢王になった後も、彭城の戦いの直後舅劉太公とともに項羽に捕われるなど苦労の連続でした。劉邦は負けて逃げる時息子と娘さえ捨てようとしたくらいですから妻を助ける余裕もなく、もしかしたら捨てるつもりだったかもしれません。
子供二人は、劉邦が馬車から捨てるたびに御者の夏侯嬰が拾ってきました。彼がいなかったら後の恵帝は存在しなかったでしょう。劉邦は怒って夏侯嬰を斬ろうとします。それに対して嬰は「どうして大切なお子様を捨てようとなさるのですか?」と泣いて訴えました。
劉邦は、「子供なんぞ生きていれば何人でもつくれるわい。それよりも今は俺が生き残る方が大事だ!」と嘯いたそうですから面白いですね。捨てられそうになった子供の立場から見るとたまったものではありませんが(苦笑)。
ところが優しい性格の劉盈を父劉邦はあまり高く評価していないなかったようなのです。それより愛妾戚夫人(せきふじん)の産んだ如意(にょい)を溺愛していましたから呂后は気が気でありませんでした。呂后は実家の呂氏一族や信頼する相国蕭何らに相談しなんとか息子の皇太子を守り抜きました。
その恨みが劉邦の死後戚夫人に向けられたとしても不思議ではありません。
ある日、呂太后は「面白いものを見せてやる」と息子恵帝を誘い出します。厠に案内された恵帝が穴を覗き込むと何やら生物らしきものが蠢いています。
母に「あれは何です?」と尋ねると「あれは人豚じゃ」と答えました。古代支那では厠は二段式で下に穴を掘り豚を飼っていたそうです。
よく見るとなんと戚夫人ではありませんか!手足を斬り落とされ目をくり抜き薬で耳と喉を潰された無残な姿を見て恵帝は衝撃を受けました。美しかった戚夫人の変わり果てた姿に涙を浮かべた恵帝は「何もそこまでする事はないではありませんか!」と抗議します。
しかし呂太后は「馬鹿者、この女のせいでそなたは皇太子の位を剥奪されそうになったのじゃぞ。これは当然の報いじゃ」と冷然と言い放ったそうです。
同じころ夫人の息子趙王如意も呂太后の命で毒殺されました。もともと柔弱だった恵帝は母の残忍な所業を受け精神がおかしくなったのでしょう。以後まともに政治を執らなくなり酒色に溺れ体を壊します。わずか23年の生涯でした。
呂太后は、戚夫人母子だけではなく恵帝のライバルになりそうな劉邦の庶子を次々と殺そうとします。まさに鬼女ですが、彼女なりに息子の行く末を案じていたのでしょう。しかしその甲斐もなく息子恵帝は即位後わずか7年で死去しました。恵帝の葬儀の際、呂太后は涙を見せなかったといわれています。
漢帝国は一体どうなってゆくのでしょうか?王朝の危機に生き残った元勲たちはどう動くのか?後編では彼らと呂氏一族との戦いを描きます。