鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

司馬懿の先祖と司馬遷の先祖

 私(鳳山)の悪い癖は一つの記事を書くと関連項目を調べないと気が済まなくなることです。ですから熱中しているときの集中力は凄いんですが、熱しやすく冷めやすいのですぐ忘れます。支那史上の有名人の子孫、先祖を調べていくうちの関連話です。歴史に興味のない方は全く面白くないと思うのでスルー推奨です。

 過去記事で秦の将軍王翦(おうせん)の子孫が漢代の剛直の士王吉でその末裔は魏晋南北朝時代門閥貴族琅邪王氏になったことが分かりました。そして支那史上で最も有名な書聖王義之が登場します。では王義之と並び称される書家・詩人である謝霊運はどうだったのでしょうか?謝氏に関しては先祖が分かりませんでした。ただ陳郡謝氏は琅邪王氏と共に魏晋南北朝時代何代にもわたって宰相を出した超名門の門閥貴族でしたので、もともと大地主だったのでしょう。陳郡は現在の河南省周口市一帯。八王の乱から始まる中原の混乱を避け江南に一族郎党で移り住んだのでしょう。このあたり山東の琅邪王氏と似ていますね。

 ちなみに王義之の大叔父には東晋の建国を助けた宰相王導がおり、謝霊運の祖父は淝水の戦いで東晋を滅亡から救った将軍謝玄で、謝玄の叔父が宰相謝安です。陳郡謝氏と琅邪王氏は何代にもわたって通婚を繰り返しており南北朝時代南朝政権は王氏、謝氏に代表される有力貴族の連合政権でした。日本史的感覚から言うとただの貴族にそれだけ力があるはずがないと思われるかもしれませんが、支那の貴族、豪族は桁違いで広大な荘園を持ち部民を動員すると2~3万人かそれ以上の私兵を持っていました。イメージ的には江戸時代の大名家に近いかもしれません。その中で王氏、謝氏は加賀百万石前田家や薩摩七十七万石島津家レベル(あるいはそれ以上か?)だったと思います。

 では三国志諸葛亮のライバルだった司馬懿はどうでしょうか?司馬懿の一族は河内(かだい)郡温(現在の河南省のうち黄河以北の土地)出身でした。調べてみるとその先祖は戦国時代趙の将軍だった司馬尚。名将李牧と共に滅びゆく趙を秦の侵略から守り抜き戦いますが、秦の賄賂を受けた趙王の側近の讒言で将軍職を解かれます。李牧は讒言を信じた趙王の命で自害しますが、司馬尚は上手く逃亡に成功したようです。子孫の司馬懿に繋がる要領の良さですね。司馬卬(しばごう)は司馬尚の息子で、秦末の混乱期に台頭、項羽により河内地方を中心とする殷王に封じられました。司馬一族が河内に定住したのはこの頃でしょう。その後、司馬氏は漢朝に仕え三国時代司馬懿司馬師司馬昭を輩出、司馬懿の孫司馬炎の時代に主家である魏を滅ぼし晋(西晋)を建国しました。

 司馬氏といえばもう一人有名人がいます。不朽の名著史記を記した司馬遷です。先祖を調べると秦の中期、蜀王国を滅ぼした将軍司馬錯(しばさく)でした。これは意外でしたね。ちなみに蜀王国は伝説の三星堆文明を滅ぼした望帝杜宇の末裔で中原とは違う独自の文明を築いていました。民族も漢民族ではなくおそらくチベット系の羌族ではなかったかとも言われます。

 司馬とはもともと軍政を司る役職で、それを姓としたものです。日本で言えば三善氏が問注所氏を称したようなものでしょう。代々軍人を輩出しそうな家系なのに司馬遷のような文人が出るんですから面白いですね。もっとも司馬錯のさらに先祖は周代記録係だった司馬氏だったそうですから、文系の血も流れていたのかもしれません。司馬遷の父司馬談も太史令(朝廷の祭祀、文書の起草や記録を司る役職)だったそうですから、漢代は文官の血が強まっていたのでしょう。

 歴史上の有名人の先祖や子孫を調べると本当に面白いですね。