晋の献公は亡くなる前、後事を実直で忠誠心篤い荀息に託します。やはり幼少の奚斉が後を継ぐ事に不安だったのでしょう。BC651年9月、献公が亡くなり奚斉が即位するとその不安は的中します。驪姫とその息子奚斉を認めない里克が大夫邳鄭らを語らい申生、重耳、夷吾に心を寄せる者たちを集めて反乱を起こしたのです。里克は挙兵に先立ち荀息を誘いますが、彼は「先君の遺命に背くことはできない」とこれを拒否します。
里克は父献公の喪に服する奚斉を宮中で刺殺、驪姫とその一族もその時同じ運命を辿りました。荀息は主君に従い殉死しようとしますが周囲に諌められ先の乱で生き残っていた同じ驪姫の産んだ弟悼子を晋君に立てます。ところが11月にはその悼子も反乱軍に弑殺されたため荀息はこれに殉じました。これが晋公室を揺るがせた驪姫の乱の顛末です。
里克は、最初狄に亡命していた重耳に晋公に即位してもらうよう要請しました。ところが重耳は「私は父の命に背いて国を出た。そのような不幸者が帰国できるだろうか?どうか別の公子を晋公に即位させてほしい」と断ります。当時重耳には趙衰、狐偃(こえん)、賈佗(かだ)、先軫、魏犨(ぎしゅう、魏氏の祖)ら優に一国の宰相を務められる有能な家臣が付き従っていました。もしかしたら反乱軍に乗って即位することの危うさを考えての決断だったのかもしれません。
仕方なく、里克らは梁にいた夷吾に使者を送ります。夷吾もこの申し出を警戒し隣国秦に援軍を要請し秦軍と共に入国して首都を制圧する事を考えました。当時の秦君は名君として名高い穆公(ぼくこう)でした。宰相の百里奚に下問すると「夷吾は礼儀をわきまえず信用出来ない人物ですが、この際晋に恩を売っておくことも良いでしょう」と答えたので兵を出して夷吾を晋に送り出します。
夷吾は晋に到着すると、即位の恩人である里克を殺し予想通り秦も裏切ります。即位に協力したら秦に河西の地(黄河の几状湾曲部の西側、陝西省)を割譲するという約束を反故にしたのです。夷吾は即位して恵公(在位BC650年~BC637年)となりました。
即位して4年、晋は恵公の暴政の祟りか深刻な飢饉に見舞われます。困った恵公はあろうことか秦に援助を求めました。あまりの厚かましさに穆公はこれを拒否しようとしますが百里奚に諌められ穀物を送ります。その2年後、今度は秦が飢饉になります。当然晋はこの前の恩を返すものと考えていた穆公ですが、恵公は隣国の危機に付け込み逆に攻め込む始末でした。さすがに腹にすえかねた穆公は兵を出してこれを迎え撃ちます。怒りに燃える秦軍は侵略者を撃退し、以後晋と秦は冷戦状態に陥りました。
BC637年恵公が亡くなると、太子圉が即位します。すなわち懐公です。晋に恨みを抱く秦は、公子重耳を探し出して援助し即位させようと画策します。弟恵公が即位してから今まで重耳は何をしていたでしょうか?実は重耳は、恵公の暗殺団に襲来され亡命先の狄から斉に脱出していました。
当時の斉は覇者桓公の晩年でしたが、祖国を追われた悲運の公子を温かく迎えます。桓公は重耳に自分の娘を与え厚遇しました。それから5年快適な生活に慣れ愛妻に溺れた重耳でしたが、側近の狐偃、趙衰らはこれを憂い重耳に諫言します。ところが重耳が全く取り上げなかったため思い余って正室姜氏(桓公の娘)に相談しました。一説では狐偃らが斉を出る相談していたところを侍女がたまたま聞きつけ姜氏に訴えたともされます。
彼女は逆にその侍女を殺し夫重耳に訴えました。
「あなたは一国の公子でありながら婦女子の愛に溺れ安楽に時を過ごしておられます。しかし側近の方々は貴方へ忠節をつくし祖国へ帰還する事を願っているのです。どうしてこれらの方々を蔑ろにされるのか?私はあなたのために恥じ入ります。どうかこの国を出て大業を成してくださいませ」
しかし重耳が曖昧な返事をしたため、狐偃らと図り重耳を酔わせて車に乗せ斉を脱出させました。流石は桓公の娘です。しかし彼女は重耳には付いて行かなかったようです。あっぱれな烈女ですね。
酔いから覚めた重耳は怒って狐偃を殺そうとしました。ところが狐偃は
「あなた様が大業を成し遂げる事が出来るなら、私はどうなろうとかまいません」と言いました。重耳も思いなおして許します。重耳一行はその後曹、宋、鄭を経て南方の大国楚に向かいます。楚でも成王から歓待されました。
ある日酒宴の席で重耳は成王から
「あなたが祖国に帰られれば何を持って余に報いてくれるのか?」と戯言を言われます。少し考えた重耳は
「大王は天下の財宝を集められ、私が何を持って報いるのか考えようもありません。もし私が晋公になって大王の軍と不幸にして会い見えることになったら、大王に敬意を示し三舎を避けましょう」と答えました。
舎とは当時の軍隊の一日の行軍距離でだいたい30kmくらいを指します。3日分の行軍距離を後退しましょうと約束したわけです。後でこれを聞いた楚の将軍子玉は怒って
「重耳の我が王に対する言辞は不遜です。直ちに殺してしまいましょう」と訴えました。しかし重耳に好意を抱く成王は笑って取り上げませんでした。
そのうち秦の穆公が重耳を探しているという報告が入ります。成王は「我が国は晋と遠すぎる。隣国の秦に頼られるがよかしかろう」と重耳に莫大な贈り物を付けて秦に送り出しました。重耳はここでも厚遇され穆公の公女を娶ります。晋の恵公が亡くなり懐公が継承したという報告が秦にもたらされました。恵公の暴政に不満を抱いていた晋の国人たちは、重耳が秦に居る事を知り入国して晋君に就いてもらうよう懇請します。
BC637年、秦の大軍に守られて重耳は帰国しました。晋軍は迎え撃ちますが恵公の暴政で人心が離れていたため士気が低く本気で戦う者は少数でした。わずかな抵抗を排除し重耳は晋の都絳に入城します。懐公は混乱の中で殺されました。享年22歳。同年12月重耳は第24代晋公として即位します。亡命生活19年、すでに62歳という高齢でした。重耳に付き従った者は狐偃が宰相になったほかそれぞれ重職に取り立てられます。同じ貴族でも重耳に従って国外にあった者の家が栄え、それまで晋国に留まった者たちは冷遇されました。
重耳は後に文公と諡(おくりな)されますから、以後文公(在位BC636年~BC628年)と記しましょう。文公の治世は短かったのですが、その間に輝かしい業績を示します。BC635年反乱で国を追われた周の襄王を助け都を鎮めました。BC632年には楚に攻められた宋が救援を求めため自ら軍を率いて出陣します。この時文公はかつての成王の恩に報いるため三舎を避けました。このまま楚軍も引いたら戦は起こらなかったはずですが、主戦派の将軍子玉が楚軍の主力を率いて文公に挑んできました。
これを城濮の戦いと呼びます。城濮は現山東省西部の鄄城県にありました。戦いは晋軍の大勝となり敗北した子玉は成王の怒りに触れ処刑されます。この戦いの勝利で晋の文公は覇者の地位を確立しました。以後、晋と楚の二大大国の対立は晋優勢のまましばらく続きます。BC632年冬、文公は諸侯を河内(かだい、中原北部、黄河の北岸)温(おん)に集めて会盟を執り行いました。
治世9年、文公重耳は栄光のうちに世を去ります。亨年69歳。当時としては驚くべき長命でした。後を継いだのは子の驩(かん)。こちらは襄公と呼ばれます。襄公の晩年は建国の功臣狐偃の子狐射姑(こえきこ)と趙衰の子趙盾(ちょうとん)の熾烈な権力闘争が激化しました。以後公室の権力は衰え六卿(りくけい)とよばれる有力貴族が晋の政治を支配するようになるのです。
次回は、劣勢に陥った楚の反撃と荘王の事績を紹介します。