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春秋戦国史Ⅹ  趙の武霊王

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 戦国時代の始まりは晋が分裂した三晋が周王から諸侯に封じられたBC403年だと云われます。ただし晋自体は首都近辺の弱小勢力に落ちぶれながらも韓・魏連合軍に攻め滅ぼされるBC376年まで続きました。この前後の年は他国でも激動が起こっており斉では陳から亡命した公子完の子孫である田和(太公)が、主君斉の康公を滅ぼし国を乗っ取ります。田和は周の安王から諸侯に封じられました。以後の斉をそれまでの姜氏の斉と区別して田斉と呼びます。

 韓・魏・趙のその後の動向を見てみましょう。まず韓は、春秋時代の諸侯国である鄭への侵略を始めました。すでに晋時代に鄭の領土は晋にかなり奪われており、それを受け継いだ韓は首都を平陽から鄭への侵攻に便利な黄河南岸の宜陽に遷都します。BC375年、韓はついに鄭を滅ぼして首都を鄭の首都であった新鄭に遷しました。韓固(康子)から数えて8代目の昭侯(在位BC362年~BC333年)は法家(諸子百家の一つ)の申不害を登用し改革を進めます。昭侯の時代韓は最盛期を迎えますが、次の宣恵王(在位BC332年~BC312年)が初めて王号を称して以降、台頭してきた西方の秦の侵略に悩まされ続ける事になりました。

 次に、魏は当初安邑を中心とする河東地方が領土でしたが魏駒(桓子)の孫に当たる文侯(在位BC445年~BC396年)の時代に、韓の上党地方と趙に挟まれた太行山脈の回廊部を通って東に進出し黄河北岸の鄴(ぎょう)地方、黄河南岸の梁(現在の開封地方)を侵略します。魏の領土が歪なのはこのためです。この辺りは中原の中心地の一つで人口密集地帯でもあったので魏は瞬く間に強大化しました。魏の文侯は戦国時代最初の覇者となります。文公は、李克、呉起、楽羊(楽毅の先祖)、西門豹など優秀な人材を集め、それが富強に大きく貢献したのです。文侯の後は、息子の武侯、孫の恵王(在位BC400年~BC319年)と続きますが、初めて王号を称した恵王の時代、台頭してきた斉の威王(在位BC356年~BC320年)の前に桂陵の戦い、馬陵の戦いと相次いで敗れ、西からは秦に黄河湾曲部の東である西河地方を奪われ覇権国から転落しました。秦の圧迫を受けた魏は、大梁(現在の開封)への遷都を余儀なくされます。

 趙は、他の二国と比べると発展が遅れました。しかし最初飛び地であった邯鄲地方で領土を拡大し首都をそれまでの晋陽(山西省太原)から邯鄲に遷します。邯鄲も中原の一角で豊かな地方でしたので以後ゆるやかであっても趙は発展を続けました。趙無恤(襄子)の父趙鞅(簡子)の曾孫に当たる烈侯(在位BC408年~BC400年)の時代、BC407年魏の文侯が趙に道を借りて異民族白狄の建てた国中山を討ちます。中山国は魏の将軍楽羊に滅ぼされ魏の公子を国王とする傀儡国家となりました。楽羊の子孫も中山の宰相となり現地に残ります。その子孫から楽毅が出ました。

 趙で最初に王号を称した武霊王(在位BC326年~BC298年)は、趙無恤(襄子)から数えると8代目に当たります。ただし武霊王自体は、生前には王の資格なしとして「君」と呼ばせていました。息子の恵文王が追諡で武霊王としたのです。

 武霊王は、胡服騎射(こふくきしゃ)を支那で初めて採用した君主として有名です。それ以前の支那の兵制は複数の馬に曳かせる戦車が中心でした。乗という単位は戦車を中心として補助兵が付く100名の部隊を表します。ですから五百乗の軍と言う場合は、兵力五万を表しました。農耕民族である支那人は直接馬に乗れなかったのです。当時鐙が発明されていない事もありました。これはオリエントでも同じ状況でした。

 ところが趙は北方に位置したため、匈奴などの遊牧騎馬民族との戦争が日常茶飯事で騎馬を巧みに操る彼らに対抗できなくなります。そこで武霊王は領内に住む遊牧民族の若者を中心に採用し、戦車ではなく馬に直接騎乗して弓矢を主武器とする騎兵部隊を編成しました。服装も支那民族伝統のゆったりとしたものではなく騎乗戦闘に便利な胡服を採用します。イメージ的には現在のモンゴル人などが来ている長袖筒とズボンの服です。

 武霊王の兵制改革は、趙を一気に強大化させました。鈍重な戦車戦が中心の中原諸国では趙の軽快な騎兵部隊に対抗できなかったのです。武霊王はその勢いを持って隣国中山国を侵略します。中山国は将軍楽毅を中心に頑強に抵抗しますがBC296年完全に滅ぼされました。

 ただ胡服騎射は趙の群臣からは内心歓迎されませんでした。支那の伝統的考え方としては服装が文明を表し、遊牧民の服装である胡服など言語道断だったからです。武霊王は国内の不満を武力で抑えつけます。その後武霊王は秦の後継者問題に介入したり斉や魏を圧迫したりして、このままいけば趙の天下統一は時間の問題だと思われました。

 ところで武霊王が武王ではなく諡号に『霊』が付いたのは後継者問題で失敗したからです。当初武霊王は正室の産んだ公子章を太子としていました。ところが晩年愛妾の産んだ公子何を溺愛し章を廃嫡し何を太子としたのです。BC298年にはその公子何に譲位し自らは『主父』と呼ばせました。何は恵文王(在位BC310年~BC266年)となります。ただ、公子章も憐れみ国を分け北方の代を譲ろうと考えました。

 これを見た公子章は、「もしかしたら自分が弟恵文王を殺しても父は許してくれるのではないか?」と思います。あるとき主父(武霊王)と恵文王は黄河北岸沙丘の離宮行幸しました。これを絶好の機会と捉えた公子章は反乱を起こして沙丘を包囲します。邯鄲で留守を守っていた公子成と李兌は急報を受け善後策を講じました。

 相談の結果、まず名目上ではあっても現在は王である恵文王を救うのが最優先であると結論します。二人は軍を率いて沙丘に急行し公子章の反乱軍を撃破し恵文王を救い出しました。敗れた公子章はあろうことか主父のいる離宮に逃げ込みます。哀れに思った主父はこれを匿いました。

 公子成と李兌は、公子章のいる宮殿に攻め込みこれを殺します。ところが二人はこのまま兵を引けば主父に誅殺されるのではないかと恐れます。まさか攻め滅ぼすこともできませんから、主父の居る宮殿を遠巻きに包囲しました。そのまま三カ月が過ぎ宮殿内では食料が尽きます。主父は、ついに餓死しました。これが武王ではなく武霊王と諡(おくりな)された理由です。

 ただ、趙は武霊王の胡服騎射の改革のおかげで戦国時代を通じて強国の地位を保ちます。急速に台頭した西方の秦も、この趙との戦いが天下統一の天王山となりました。恵文王の時代は、廉頗(れんぱ)、藺相如(りんしょうじょ)、趙奢(ちょうしゃ)など多くの名臣を輩出し秦とよく対抗します。


 趙と秦の軍事バランスが崩れたのは、BC260年の長平の戦いに趙が敗れたからです。その前に我々は、燕の昭王の改革と楽毅と田単の死闘を見なければなりません。次回、「楽毅と田単」について記します。