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夏太后ってそんなに権力あったっけ?

【考古学】中国・秦の始皇帝の祖母の墓から新種の類人猿の骨を発見、すでに絶滅 夏太后のペットだった?



 支那の歴史に詳しい方なら秦の始皇帝、すなわち統一前は秦王政と呼ばれた男の出生の秘密を知っていると思います。彼の父である公子子楚は後に孝文王となる安国君の庶子で愛されなかったため趙に人質に出されます。

 当時秦と趙は敵対しておりいつ殺されてもおかしくない状況でした。子楚を人質に出した祖父昭襄王(始皇帝から見ると曾祖父)にとってかわいい孫という意識はゼロだったでしょう。また父安国君も当時は太子が別にいたため王位を継ぐ可能性も低く、昭襄王に命じられて機械的庶子を人質に差し出しただけという印象があります。

 ちなみに、子楚は趙の都邯鄲で大商人呂不韋と出会い、彼に「奇貨居くべし!」と叫ばせました。呂不韋は子楚を人生を賭けるに足る存在だと認め、私財をなげうって安国君に取り入り、安国君の寵愛が最も深かった華陽夫人の養子に子楚を送り込むことに成功します。するとタイミングが良すぎることに昭襄王が死去。太子も既に亡かったため安国君が孝文王として即位しました。これで子楚は自動的に太子となります。太子を人質にしておくわけにはいきませんから、子楚は秦に呼び戻されました。

 子楚は絶望的な状況から呂不韋の働きによって人生が大逆転したため有頂天になって呂不韋の愛妾だった趙姫を自分に譲るよう頼みます。呂不韋も女一人のために人生を賭けた大博打を降りるわけにはいきませんから、渋々愛妾を子楚の譲りました。まもなく趙姫は子供を身ごもります。このタイミングから、趙姫は呂不韋の子供を身ごもった状態で子楚に嫁いだのでは?と言われます。こうして生まれたのが公子政でした。ですから始皇帝と秦の王室とは血縁関係がない可能性が高いのです。

 詳しくは宮城谷昌光さんなどの小説を見てもらうとして、その後の展開を簡単に記すと孝文王も即位後たった3日、53歳でで死去。子楚は即位し荘襄王となりました。あまりにも不自然な展開から呂不韋が何かした可能性は高いと思います。

 養母であった華陽夫人は(彼女のおかげで子楚が即位できたので)華陽太后と尊称され、生母夏姫もこの時やっと夏太后となれたのです。ですから華陽太后には遠慮しないといけない立場、それほどの権力があったとはとても思えません。もちろん、息子荘襄王が即位後わずか3年、35歳で若死し孫政が即位しますからそれ以降は権力がふるえたでしょうが、しばらくは呂不韋が相国(日本で言えば太政大臣に当たる)という最高権力者として絶大な力を持ちそこまで贅沢できたかどうか?その後も嫪毐(ろうあい)の乱、呂不韋失脚など宮廷内で事件が続発してましたから、太后の晩年がどうなったか?

 秦王政が実権を取り戻し支那大陸を平定し絶大な力を持つ始皇帝になった後まで生きたら、祖母(ということになっている)にあたる太后を手厚く葬った可能性はありますがね。


 珍しい動物も、太后本人より始皇帝に献上されたものを始皇帝から贈られたという話なら納得します。

 本来は学術的な話なんでしょうが、太后という名前で歴史背景を考えてしまいました(苦笑)。