あまり支那の歴史に詳しくない方は、春秋戦国時代の秦が早くから超大国で支那統一をしたのも当然だと思っているでしょう。ところが秦は中原諸国から見たら西戎と区別のつかない蛮夷の国で文化の遅れた後進国、しかも国家間の約束も守れない虎狼之国と蔑まれる存在でした。
その秦が一気に強国となるのは孝公(在位前361年~前331年)の時代です。孝公は魏から亡命してきた商鞅を抜擢し厳格な法治主義からなる専制国家を作り上げました。ただこの段階では列強の一角になったというだけで、本格的に超大国の道を踏み出すのは孝公の孫にあたる昭襄王(在位前306年~前251年)の治世です。昭襄王は宰相に魏冄(ぎせん)や范雎(はんしょ)、将軍に白起を起用し、当時最強の軍事国家であった趙を長平の戦いで撃破、他の諸国家も圧迫し覇権を確立します。以後支那戦国時代は秦を中心に回り始めました。
では昭襄王の治世が安泰であったかというとそうでもなく、そもそも即位の経緯から怪しいものでした。正嫡だった兄武王が不慮の事故で亡くなったために庶流の彼が即位しただけで、武王の事故死も疑えば疑える事件です。しかも治世の初めは母である宣太后が実権を握り幼い昭襄王は飾り物にすぎませんでした。宰相に彼女の弟魏冄が就任したことでも、武王の事故死が宣太后と魏冄の陰謀ではなかったかと疑われる所以です。
当時の秦は本土のすぐ北、オルドス地方(黄河が几状に湾曲する内部、関中のすぐ北)に義渠という異民族を抱えていました。義渠については謎が多く、西周を滅ぼした犬戎の末裔だとも、チベット系あるいはトルコ系の遊牧民だったとも言われます。当時のオルドス地方は砂漠化の進んだ現在とは違い草原が広がる遊牧の適地でした。匈奴をはじめとする北方遊牧民がオルドスの地を欲したのもこれが理由です。
戦国時代初期、魏の文侯が将軍呉起の活躍で黄河西岸の西河地方を征服すると、義渠は魏に臣従し秦を苦しめました。一時期支那大陸の覇権を握りかけた趙の武霊王(胡服騎射で有名)も義渠を利用し秦を征服しようとします。義渠軍は一時秦本土の渭水沿岸まで攻め寄せました。
同じ西戎出身という事で近親憎悪があったのか秦と義渠はしばしば対立しました。昭襄王に我慢ならなかったのは、義渠王と母である宣太后が不倫関係になったことです。そればかりか、義渠王は秦の王宮まで堂々と出入りし宣太后と枕を共にしていたそうですからおぞましい関係でした。これを見ても、秦と義渠のパワーバランスは義渠側に傾いていたのかもしれません。なんと宣太后は義渠王との間に二人の子供まで設けたそうです。
成長した昭襄王は、我慢の限界に達します。ある日、昭襄王は王宮で宣太后と同衾していた義渠王を引きずり出し首を刎ねました。間髪入れず義渠に攻め込みこれを滅ぼします。史記では義渠王を騙し討ちにしたのは宣太后自身だと書かれていますが、不倫して子供まで設けたのに裏切るか疑問です。おそらく息子の昭襄王に脅されてやったのかもしれません。
ただ宣太后は摂政、弟の魏冄は宰相と一族で大きな権力を握っていたのでこの時は処断されませんでした。その後、范雎を宰相に抜擢した昭襄王は彼の建言を容れ宣太后を退位させます。魏冄はじめ高位高官に昇っていた一族をことごとく罷免、ようやく親政を始めることが出来ました。その後の活躍はご存知の通り。
秦に滅ぼされた義渠の生き残りは北に走り匈奴と合流したそうです。
ちなみに宣太后は義渠王の他に何人も愛人が居たそうで、生来の淫奔な性格だったのでしょうね。秦の始皇帝の母である趙太后と似ていたのかもしれません。王妃や王太后が淫乱だと国が乱れるというのは古今東西変わらないと思います。本当に困ったものです。ロシアのエカテリーナ2世のように淫奔の欠点を補って余りある外交内政の才能があれば話は別なんでしょうが…。