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春秋戦国史11  楽毅と田単(前編)

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 春秋時代最初の覇者桓公を出した斉ですが、桓公死後の後継者争いで衰え晋と楚二大大国の後塵を拝するようになります。春秋時代末期には南方の新興国呉や越に圧迫されるようにさえなりました。時代はちょっと遡り春秋時代中期のBC670年頃、陳の厲公(れいこう)の公子であった完は陳公室の後継者争いに巻き込まれ斉に亡命します。

 公子完が生まれた時、陳を訪れていた周の太史(天文歴史を司る官)に卜筮で占ってもらったところ「陳とは別の国で諸侯になる」と出ました。これは有名な話で易経繋辞上伝にも出ているので私も読んだ事があります。公子完は斉の桓公に厚遇され陳完と名乗りました。後に陳氏は田氏と称するので公子完を田敬仲とも呼びます。
 斉の景公(在位BC547年~BC490年)時代の当主田乞(でんきつ、釐子、?~BC485年)は、自領民に施す時は大きな枡を使い、課税する時は小さな舛で取り立てたので領民ばかりか斉全土から称賛されました。このままでは斉を乗っ取られると危惧した臣下は景公に危険性を訴えますが取り上げられませんでした。

 田乞は、斉で最高の家格を誇り何代にもわたって卿(大臣)を輩出している高氏、国氏の追い落としを図ります。BC489年、他の大夫(貴族)たちを巻き込んだ田乞は軍を率いて高張、国夏を攻撃し二氏を追放しました。そして悼公を擁立し自身は宰相になります。この段階で、斉国内で田氏に対抗できる者はいなくなりました。

 田乞の後は田常(成子)、田盤(襄子)、田白(荘子)と続き、陳完から数えてちょうど10代目にあたる田和(太公、?~BC385年)が登場します。田和は宣公・康公と二代に渡り宰相を務めBC391年にはその康公を廃し自ら斉公を称しました。さすがに康公を殺すことはしませんでしたが、山東半島海浜に追放しここに太公望姜子牙から始まる姜斉は滅びます。BC386年には周の安王により諸侯に列せられました。以後の斉を田斉と呼びます。

 田和(太公)から数えて4代目の威王(在位BC356年~BC320年)の時に初めて王号を称します。曲がりなりにも権威を保っていた周王室は、列国の君主が王号を称し始めた戦国時代中期以降完全に権威が失墜し洛邑近辺を領する弱小国に転落しました。威王に関しても楚の荘王のようなエピソードがありますが割愛します。威王は孫子の兵法を記した孫武の子孫孫臏(そんぴん、孫武の孫とも5世の子孫ともいう。孫武は晩年嫡子ができたので孫説もあり得る)を登用し富国強兵に努めました。

 それまで覇権国だった魏の恵王を桂陵、次いで馬陵と相次いで撃破し斉は再び強国の仲間入りを果たします。斉の首都臨淄(りんし)は人口50万(30万説もある)を数える世界有数の大都市に発展し文化も栄えました。諸子百家とよばれる思想家たちが数多く集まり稷下(しょくか)の学士と呼ばれます。有名な孟子荀子臨淄に滞在したくらいです。ちなみに性悪説荀子の先祖は晋から斉に亡命した中行氏(本姓荀氏)だとも云われます。また荀子の子孫からは三国志で有名な荀彧・荀攸も出ました。

 魏の覇権国転落は、相対的に斉と西の秦の地位を上昇させました。後に詳しく述べるつもりですが秦も公孫鞅(領地の名前をとって商鞅とも呼ばれる)を登用した孝公(在位BC381年~BC338年)の時代に急速に台頭します。実は公孫鞅は魏の恵王の宰相公叔座の食客をしており、公叔座は死の間際恵王に公孫鞅を後継者に推薦していたのです。この絶好の機会を逃すのですから恵王は無能ですし、魏の命運も尽きていたのでしょう。

 威王とその子宣王(在位BC319年~BC301年)の時代が斉の絶頂期でした。威王の孫に当たる湣王(びんおう、在位BC300年~BC284年)の即位当初はまだまだその余喘を保ちます。湣王は周辺諸国へ露骨に侵略の手を伸ばしBC317年宋を討ちます。BC314年には燕の宰相子之と太子平が争い内乱状態になっている事に付け込み侵略、燕王噲(かい)を殺し燕を占領してしまいました。実力がものを言う戦国時代とはいえこの暴挙は各国の顰蹙を買います。

 燕の昭王(太子平、在位BC312年~BC279年)は、斉の属国である事を認める条件でようやく即位できました。昭王は斉への恨みを忘れず、戦乱で荒廃した国土の復興を進めるとともに広く天下に人材を求めます。その際、師事する郭隗(かくかい)にどのように人材を求めるがよいか相談しました。

 郭隗は、「まず自分を厚遇しなさい」と助言します。自分のようなつまらない男でさえ厚遇されるのだから天下の人材はこぞって燕にやってくるはずという意味でした。これが故事「隗より始めよ」の出典です。事実、中山の戦いで趙の武霊王を苦しめた将軍楽毅(生没年不詳)が燕にやってきました。昭王は楽毅を上将軍に抜擢するとともに亜卿(上卿に次ぐ位)にします。

 BC288年、斉の湣王は秦の昭襄王と語らい王より上の位である東帝、西帝と称し驕慢を示しました。これは諸国の猛反発を食らいまもなく両者ともこれを撤回します。湣王は侵略戦争を繰り返し周辺諸国すべてに憎まれました。これを冷静に見ていた楽毅は昭王に進言し、韓・魏・趙と秘密同盟を結びます。するとあろうことかこれに秦まで加わりました。昨日の友は今日の敵。結局斉と秦の友好関係はこの程度のものにすぎなかったのです。

 BC285年、楽毅は5カ国の連合軍を率い斉に侵攻します。楽毅は済西の戦いで斉軍を撃破。ここで他の4国の軍は撤退しますが、楽毅は燕軍を率いて斉に留まりました。斉の首都臨淄は間もなく燕軍に占領されます。斉の七十余城は攻め落とされ、残すは湣王の逃亡した先の莒(きょ)と即墨(そくぼく、山東省青島の内陸部)のみとなりました。

 湣王は、楚から援軍に来た将軍淖歯(とうし)に殺されます。傲慢な男の哀れな最期でした。ただいくら暴虐な王とはいえ、援軍に来た他国の将軍に殺される謂われはありません。怒った莒の民衆は蜂起して淖歯を殺し、湣王の子法章を擁立しました。すなわち襄王です。




 風前の灯となった斉の命運はどうなるのでしょうか?次回、救国の英雄田単の登場と『火牛の計』で名高い即墨の戦いを描きます。