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春秋戦国史13  奇貨居くべし

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 長平の戦いで活躍した秦の丞相(宰相)范雎、一説では韓・魏・趙に滅ぼされた范氏の子孫だとも云われます。因縁めいた話ですが、先祖の恨みをこの時晴らした事にもなるのです。長平の戦いの敗北で趙は覇権国から転落し滅亡は時間の問題となりました。

 秦軍は長平の戦勝の後趙の都邯鄲を囲みますが、老兵と少年兵しか残っていなかった趙は国民一丸となって守り抜き魏からの援軍もあって秦軍は囲みを解いて撤退します。秦としてはいつでも趙は滅ぼせると思っていたので、態勢を立て直すための一時的撤退に過ぎませんでした。

 秦の富強は、たしかに商鞅の改革によるものでしたがそれ以外に秦の恵文王時代のBC316年蜀王国(古蜀)を滅ぼして四川盆地を併合した事も大きかったと思います。蜀は当時支那文明圏には属しない異民族の国でした。おそらくチベット系かタイ族系だと推定されます。三星堆遺跡(5000年前から3000年前)で有名な三星堆文明を滅ぼした成都地方に起こった杜宇の王朝が支那史書に出てくる古蜀王朝ではなかったかと思われます。

 秦は、将軍司馬錯に率いられた軍を派遣し蜀王国を滅ぼし併合しました。四川盆地は現在人口一億超えている事でも分かる通り豊かな土地でした。長江上流に位置しこれに流れ込む大河(岷江、沱江、嘉陵江、烏江)が盆地内を潤し沖積平野を形成します。四川の由来はこの四つの河でした。また雲南地方を通じて遠くインドや東南アジアとの交易路が確立されており、秦は蜀併合によって食糧生産基地、南西交易路を獲得したのです。

 ちなみに秦漢と続く爵位商鞅の改革時に設けられたものです。後で書く機会はないと思うのでここで紹介しておきます。爵位は上から

1、列侯
2、関内侯(かんだいこう)
3、大庶長
4、駟車庶長
5、大良造
6、少上造
7、右更
8、中更
9、左更
10、右庶長
11、左庶長
12、五大夫
13、公乗
14、公大夫
15、官大夫
16、大夫
17、不更
18、簪裊(読み方不明。分かる方は内緒コメントで教えてください)
19、上造
20、公士

です。ちなみに12位の五大夫以上は官秩六百石以上でないと成れないのでこれを官爵といいます。わかりやすく日本の例で言うと列侯と関内侯が三位以上の公卿、大庶長から五大夫までが日本で言うところの五位以上の殿上人にあたると解釈してもあながち間違いではないかもしれません。

 ところで長平の戦いとその後の邯鄲籠城戦を経験した者のなかで、韓の陽翟(ようてき)出身(あるいは衛の濮陽出身とも)の呂不韋(?~BC235年)という大商人がいました。彼のような富豪が住んでいたことでも邯鄲がいかに栄えていたか分かります。当時の人口が20万だといわれますから斉の都臨淄(人口50万)に次ぐ大都市でした。

 ある時、呂不韋は秦から趙に人質として出され忘れ去られていた子楚という公子と出会います。当時は合従連衡という外交戦が活発になされており、国と国との約束事の保障として人質が送られました。秦としても趙といずれ敵対することは明らかでしたからこんな危険な国に重要な人物を送るはずがありません。子楚は昭襄王の太子安国君(のちの孝文王)の庶子で、その母夏姫(春秋時代の夏姫とは関係ない)が寵愛を失ったために選ばれたといわれます。安国君は20名も子供がいたそうですから完全な捨て駒でした。

 通常なら、このまま邯鄲で朽ち果てる運命でした。ところが呂不韋は彼を見て「奇貨居くべし」(これは珍しい品物だ。これを買って置くべきだ)と叫んだ(おそらく心の中で。実際に人前で叫んだら狂人と思われます 苦笑)そうです。

 交易で巨万の富を築いた呂不韋は、子楚を一世一代の貴重な財宝だと見たのです。その後全財産を費やし子楚を歓待します。今まで蔑ろにされ惨めな生活を送ってきた子楚は、急に贅沢な生活をおくれるようになって増長しました。ある時、呂不韋の屋敷で一人の美女を見染めます。彼女は邯鄲一の舞姫で、呂不韋が身受けして愛人にしていたのでした。

 子楚は、美女を所望します。最初渋っていた呂不韋ですが子楚にその後の自分の人生を賭けていたのですから仕方なく美女を譲りました。ところが彼女はすでに呂不韋の子を身籠っていました。それを黙っていた事が呂不韋のせめてもの腹いせでした。

 その後、呂不韋は単身秦の首都咸陽(孝公の時代に遷都)に向かいます。莫大な賄賂を要路に配ると、安国君の寵姫華陽夫人に面会しました。その席で、呂不韋は実子の居ない夫人に「容色を持って人に仕える人は容色が衰えると受ける愛情も緩みます」と彼女の最大の弱点を衝きました。不安を感じ「どうしたらよいのか?」と尋ねる夫人に
「今趙で人質になっている子楚公子は華陽夫人を実の母とも慕っています。孝心篤い公子を貴方の養子にし太子にすれば、安国君が王位を継がれた後も安泰です。子楚公子も太子になどなれないと諦めていたのですから、貴方が引き揚げて太子にすればその恩を一生忘れないでしょう。さすれば子楚公子が王位を継がれた後も貴方は豊かな暮らしができるはずです」
と囁きました。

 華陽夫人は、呂不韋の提案を受け入れある時安国君に趙に人質となっている子楚公子が非常に賢明で孝心篤い人物なので私の養子にしたいと願いでます。安国君も寵愛深い華陽夫人の言葉なので素直に許しました。呂不韋の活躍で子楚はついに秦の太子になれたのです。邯鄲では、すでに舞姫が出産していました。秘密を知らない子楚は喜び息子を政と名付けます。舞姫正室にしました。

 その後、BC251年秦の昭襄王が亡くなり太子の安国君が即位します。すなわち孝文王(BC250年)です。太子の子楚も咸陽に迎えられました。ところが、孝文王は父昭襄王の喪が明けて三日後急死してしまいます。太子子楚は、即位して荘襄王(在位BC249年~BC247年)となりました。荘襄王が即位できたのは呂不韋のおかげでしたので、呂不韋は丞相となり洛邑に食邑十万戸を授けられ文信君と号します。

 不可解な事に荘襄王も即位後わずか3年で急死します。このあたり呂不韋の陰謀の臭いがしないでもありませんが、BC246年太子の政が即位しました。呂不韋は仲父(父に次ぐものという意味)の称号を授けられ幼王を後見します。権勢並ぶ者なき呂不韋は、さながら秦の王でした。ところがそんな彼に人生の罠が仕掛けられます。

 未亡人となったかつての愛人趙太后が、再び呂不韋に関係を求めてきたのです。最初はこれを受けていた呂不韋でしたが、もしこの秘密が露見すれば自分はもとより一族郎党ことごとくが処刑されます。恐れ慄いた呂不韋は、太后に巨根の持ち主嫪毐(ろうあい)を引き合わせました。嫪毐は自分の巨根に輪を乗せそれを自由自在に操るという特技を持っていました。淫乱な太后嫪毐をとても気に入り、宦官と偽って後宮に引き入れます。これで不倫関係を免れた呂不韋でしたが、その結末には破滅が待っていました。

 太后嫪毐との間に二人の子供までもうけたといいます。何も知らない少年王、政。実母の爛れた性関係と出生の秘密。利口な子供であった政は、成長するにつれいつしかその秘密を知ることとなります。

 
 次回、春秋戦国史最終話『秦の始皇帝』に御期待下さい。