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春秋戦国史12  長平の戦い

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 戦国時代を最終的に統一した秦の始皇帝。秦という国は最初から強大だったと思いがちです。ところが戦国時代初期には魏に圧迫され滅亡寸前まで追い詰められていた事は意外と知られていません。魏の文侯は孫子と並び称される兵法家呉起呉子)を将軍に登用し秦を攻めさせました。呉起は、黄河湾曲部の内側西河地方の太守を兼任します。西河から南西に進めば秦の首都雍がありました。

 呉起は、文侯、武侯ニ代に渡って魏に仕えますが宰相の公叔座との政争に敗れ楚に亡命します。おかげで秦は滅亡を免れました。公叔座も呉起と争うほどですから凡庸な人物ではありません。魏の恵王の時代、死の床にあった彼が公孫鞅を推挙した事は前に書きました。しかし、無名の男を重職に抜擢する度量は恵王にはありませんでした。

 公孫鞅は秦に赴きます。孝公(在位BC381年~BC338年)は公孫鞅の非凡な才を見抜き抜擢しました。公孫鞅は後に商於の地に封じられて商君となるので以後は商鞅(BC390年~BC338年)と呼びましょう。商鞅は、孝公の信任を背景に厳しい法家思想に則った国家を作り上げます。秦という国は、支那文明圏の西の外れにあり漢民族遊牧民が雑居していましたから、そのほうが統治しやすかったのでしょう。ただ、あまりにも厳しい法律を布いたため商鞅は秦の国民の恨みを買います。とくに太子駟は、国法を犯し側近を処刑されていたので激しく憎みました。

 BC338年、後ろ盾の孝公が亡くなります。太子駟が即位し恵文王(在位BC337年~BC331年)となりました。恵文王は、早速商鞅逮捕の命令を出します。身の危険を察知した商鞅は魏に亡命しますが、かつて外交上魏を侮辱した事から受け入れ拒否されました。逃げる途中、宿に泊まろうとした時、商鞅が定めた「身元不明の人物を宿泊させてはならない」という法律で断られます。仕方なく商鞅は本拠の商於に立て籠もりますが秦の追討軍に敗北し最後は車裂きの極刑になったそうです。

 ただ商鞅の改革は引き継がれ、秦は強大化します。恵文王の庶子だった昭襄王(在位BC306年~BC251年)の時代までには、魏から西河地方を奪い返し本拠地安邑を占領、大梁への遷都を余儀なくさせました。韓へも年々圧力を加えて領土を割譲させます。当時、秦と対抗できる勢力は胡服騎射で軍制改革を成し遂げた趙しかありませんでした。

 秦と趙は何度も戦い、BC270年閼与(あつよ)の戦いでは趙の名将趙奢(ちょうしゃ)によって秦軍は敗北し拡大路線が一時頓挫します。外交的にも藺相如(りんしょうじょ)が完璧の故事に代表されるように趙をよく守りました。その他、恵文王時代の趙は廉頗(れんぱ)、楽乗など人材が豊富で秦に付け入る隙を与えませんでした。

 廉頗と藺相如に関しては『世界史英雄列伝(28)藺相如(前中後編)』

 趙奢に関しては『趙奢と趙括   父と子の相克(前後編)』

をご参照下さい。

 趙の恵文王(在位BC298年~BC266年)は、凡庸な君主ではありましたが有能な臣下の意見をよく容れ国を保ちます。ところが後を継いだ息子の孝成王(在位BC266年~BC244年)は同じ凡庸ながら自分の無能さに気付いていないという致命的な欠陥がありました。

 秦は、将軍白起(?~BC257年)を抜擢し再び拡大路線を開始します。白起は冷酷非情でしたがとても有能でBC293年には韓・魏連合軍を伊闕の戦いで破り24万を斬首しました。BC278年には楚を攻め首都郢(えい)を攻略します。本拠地湖北を奪われた楚は陳から寿春と東へ遷都せざるをえませんでした。BC273年今度は韓魏趙連合軍を華陽に撃破し13万を斬首。

 たび重なる敗北で、韓では元の本拠地で黄河北岸にあった上党地方が孤立します。秦の圧迫を受けた韓は上党の割譲を決めました。ところが、上党の住民は蛮夷の国秦の国民になるのを嫌い趙に救いを求めます。趙の孝成王は叔父(恵文王の弟)平原君と弟平陽君に善後策を協議しました。すると平陽君は「受ければ秦の恨みを買い戦争になるので止めた方が良い」と言い平原君は「どちらにしろ秦と戦争になるのなら、上党がタダで手に入るのだから受けるべき」と意見しました。

 悩む孝成王でしたが、結局上党の住民の願いを受け入れ領土に編入します。怒った秦はBC260年大軍を差し向けました。趙では老将廉頗が健在でしたので、彼を総大将に任じ長平に陣を築いて待ち受けます。両軍の兵力は不明ですが秦軍趙軍ともに40万を超えていたと思われます。趙にとっては存亡をかけた戦いでした。

 廉頗は、長大な補給線を維持しなくてはならない秦軍がいずれ撤退すると読みます。そこで陣を堅く守り持久戦に入りました。攻めあぐねた秦は、宰相范雎が一計を案じ趙の国内に多数の間者を送り込みます。そして「秦は趙括が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば対処しやすい」と嘘の情報を流させました。

 趙括は名将趙奢の息子です。幼少時より神童の誉れ高く趙ではいっぱしの兵法家として知られていました。ただ父趙奢は息子趙括の兵法論を机上の空論と断じ相手にしなかったと言われます。孝成王は秦の謀略にまんまと乗せられ廉頗を更迭、趙括を総大将に据えます。この時、夫から息子の事を聞かされていた趙括の母が王に将軍任命の撤回を訴えましたが聞き入れられませんでした。

 趙軍総大将の交代を受けて、秦は真打とも言うべき白起を総大将として長平に送り込みます。白起は前線の兵をわざと手薄にし趙軍の出撃を誘いました。これにまんまと騙された趙括は陣地から出ます。白起は偽装敗走し、軽騎兵だけで突出した趙括は本隊と致命的な間隙を生じました。この機会を待っていた白起は伏兵を出現させ趙括を包囲します。焦った趙括は包囲網を脱しようとして失敗し戦死しました。白起は総大将の居なくなった趙軍を包囲します。それから46日後、兵糧の尽きた趙軍は降伏しました。

 白起は、膨大な捕虜を養う兵糧が無かったため合理的な処分方法を考えました。捕虜たちに自ら大きな穴をいくつも掘らせ、それが完成するとことごとく生き埋めにして殺したのです。その数実に45万と言われます。さすがにこの数字は誇張だと思われていましたが、近年長平の古戦場跡から夥しい人骨が発見され史実を裏付けました。趙軍で生き残ったのはわずか240名の少年兵だけだったと伝えられます。

 長平の大敗北で、秦と趙の軍事バランスは崩れます。以後、秦の一強時代が到来しました。白起のその後を記すと、長平の輝かしい戦勝で白起が自分の地位を脅かすようになると警戒した宰相范雎は、白起に謀反の疑いありと昭襄王に讒言します。猜疑心の強い昭襄王も巨大な軍功を上げ過ぎた白起を快く思っていなかったためBC257年白起に自害を命じました。

 白起はその時「私に何の罪あるのだ? なぜ自害せねばならぬか?」と訴えたそうですが、その後「私は長平の戦いにおいて降伏兵40万余りを一夜で生き埋めにした。これだけでも天に対し罪を犯したのだから死ぬべきだ」と納得し従容として死を迎えたそうです。


 長平の戦いは戦国時代のターニングポイントでした。以後、秦王政が天下を統一するまで数十年は秦が他の六国を攻め滅ぼす歴史です。では、秦王政とは何者なのでしょうか?その秘密を解くカギは一人の大商人呂不韋にありました。次回、「奇貨居くべし」に御期待下さい。