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春秋戦国史Ⅸ  晋の分裂(後編)

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 趙氏の出自は、周の穆王の御者造父が趙城に封じられたのが始まりとされます。晋の文公重耳の側近だった趙衰(成子)の代に興隆し、趙盾(宣子)は正卿(宰相)となって絶大な権勢を誇りました。その後、趙朔(荘子)の時に一時滅ぼされるも、遺児趙武(文子)が再興し、趙成(景子)、趙鞅(簡子)、趙無恤(むじゅつ、襄子)と続きます。

 魏氏も周の武王の弟畢公高(ひっこうこう)に始まる家系で魏犨(ぎしゅう)が晋の文公に付き従った事で家運が開きます。魏犨の後は魏絳(荘子)、魏舒(献子)、魏取(簡子)、魏曼多(襄子)、魏駒(桓子)と続きました(ただし異説あり。一応岩波文庫版春秋左氏伝・魏氏系図による)。姫姓です。

 一方、韓氏は比較的新しい家系で晋の曲沃侯桓叔の子万(武子)が韓原に封じられたのが最初でした。これも姫姓。その5代あとの韓厥(献子)が、趙家のお家再興に尽力した事から台頭し、その庶子韓起(宣子)の子孫の方が発展し、韓須(貞子)、韓不信(簡子)と続きます。ただし本稿時の韓氏の当主は韓不信の従兄弟韓固(虎?康子?)でした。史記韓世家では韓簡子の息子が韓荘子で、孫が韓康子(春秋左氏伝では韓固だが韓虎と同一人物?)となっています。ここらあたり、私の古代支那史の知識が薄くて申し訳ないのですが、岩波版春秋左氏伝の系図を信頼し韓不信(簡子)の従兄弟が韓固(康子)だとして記述を進めます。もし古代支那史に詳しい方は内緒コメントでお教えください。修正いたします。韓須の弟で韓固の父が韓荘子(諱不明)なのでしょう。

 春秋時代末期の韓・魏・趙三氏のだいたいの領地関係は、魏氏が黄河湾曲部に近い河東の安邑のあたり。趙氏は晋陽(現在の太原)を本拠地とし邯鄲に飛び地あり。韓氏は晋陽と安邑の中間にある発祥の地韓原、初期の首都平陽から戦国時代長平の戦いの主舞台となる上党あたりだったと推定されます。これに対し、中行氏、范(士)氏、知氏はそれより東、おそらく商王朝の故地朝歌あたりの人口密集地帯を領していたと思われます。

 この六氏が、六卿(6人の大臣)となって晋の政治を司っていました。晋の公室は権威だけの存在となり六卿のうちの時の実力者の言いなりでした。最初に動き出したのは范氏と中行氏です。趙氏の内紛に介入した范吉射(はんきっせき)と中行寅(ちゅうこういん、荀氏の本家)は、趙鞅(簡子)を謀叛人と決めつけ攻撃します。趙鞅はたまらず本拠地晋陽に籠城しました。

 ところが、これを見ていた六卿のひとり知瑶(荀氏の分家、知伯瑶、あるいは荀瑶ともいう。?~BC453年)は、目障りな中行氏と范氏を除く絶好の機会と見て、韓氏、魏氏と語らい趙氏を助けて范氏、中行氏を討ったのです。四対二ですから二氏に勝てるはずはなく、范氏、中行氏は敗れて斉に亡命しました。四氏は范氏、中行氏の領土を勝手に分割します。

 怒った晋の出公(在位BC474年~BC457年)は四氏を討伐しようとしますが、逆に敗北し斉への亡命途中死亡しました。知瑶は出公より4代前の昭公の曾孫にあたる公子驕を擁立します。哀公(在位BC456年~BC438年)です。傀儡の晋公を擁した知瑶は絶対権力を振るいます。四卿と言いながら他の三氏はさながら知瑶の家臣のようでした。

 最初に知瑶は、韓氏の当主韓固に一万戸の食邑を要求します。断れば攻め滅ぼすという寓意です。恐れた韓固は領地を差し出しました。次に知瑶は魏駒にも同じような要求を出します。魏駒は腸が煮えくりかえりますが家臣に諌められ要求を容れました。知瑶は趙鞅の後を継いでいた趙無恤に対しては最初から攻撃姿勢を示します。

 冷酷非情な知瑶と庶子に生まれたために人の痛みが分かる人情家の無恤は、性格が水と油で互いに嫌っていたからです。BC454年、知瑶は韓氏、魏氏と連合し趙氏を攻めます。無恤は本拠地晋陽に籠城しました。晋陽城の守りは固く攻めあぐねた知瑶は、高い土堤を築き汾水の水を引き込んで水攻めにします。

 籠城一年、兵糧は尽きさしもの無恤も自害を覚悟しました。降伏しても知瑶の性格上残酷な処刑が待っているだけでしたから。ただ自分の命と引き換えにしても知瑶は晋陽城の兵士と住民を許さず皆殺しにするだろうとは容易に想像できました。軍師張孟談は主君に進言します。
「自害はいつでもできます。拙者が考えるに韓氏と魏氏は知瑶が恐ろしいから従っているだけで、趙氏が滅んだら次は自分の番だと考えているはずです。拙者にお任せ下さい」
そう言うと、深夜単身包囲を抜け秘かに韓氏の本陣を訪れました。

 人払いを要求した張孟談は、韓固に対し
「趙氏はこのままでは滅びます。そうなれば次はどうなりますかな?貴方の番かもしれないし、魏氏が先かもしれない。ここはよくよくお考えなされた方が良い。」
と囁きました。もともと韓固も知瑶を憎みこそすれ心服などしていなかったので、張孟談の言葉は胸に響きました。韓固の動揺を見抜いた張孟談はさらに続けます。
「今宵は貴方がたの運命の分かれ道になるかもしれません。どうか魏駒様も呼んでいただいて三人で話しませんか?」

 魏駒も同じ不安を抱いており、ここに韓・魏・趙の秘密同盟は成立しました。翌朝、軍議の席に現れた韓固と魏駒の様子を不審に思った予譲は主君知瑶に彼らが帰った後進言します。
「どうも二人の様子を見ていると心に何か秘めたものがあるのか落ち着きがありませんでした。よからぬ事を企んでいるのではありませんか?」

 それに対し知瑶は「あ奴らは余の威光が恐ろしくて震えているだけだ。弱虫どもに謀叛を起こせる度胸があるものか」と一笑に付します。ところが、予譲の不安はその夜的中しました。韓氏と魏氏の兵が、深夜秘かに土堤に登って掘り崩したのです。夜が明けると、堤の一角から漏れ出た水は逆流となって知氏の陣に雪崩れ込みました。同時に、晋陽城からは趙兵が打って出ます。それに呼応し背後からは韓・魏の兵が襲いかかりました。

 勇猛でなる知氏の兵も、濁流に呑まれ四方を敵に囲まれては勝てるはずがありません。知瑶は乱戦の中討ち取られます。野望多き男の最期でした。その中で、予譲だけは満身創痍になりながらも脱出に成功します。後日譚ですが、予譲は主君の仇趙無恤を執拗に付け狙いました。史記刺客列伝に載っている話です。面白い話なのでいつか書くかもしれませんが、ここでは長くなるので割愛します。

 BC453年、韓氏、魏氏、趙氏は知氏の領土を分割しました。実質的にはこの時晋も滅んでいるのですが、BC376年晋最後の君主静公は韓・魏・趙三氏の兵に攻められて滅亡します。すでにその前のBC403年、韓・魏・趙は周の威烈王によって諸侯に封じられており公式には晋との君臣関係は無くなっているのですが、晋が完全に滅亡したBC376年をもって春秋時代の終わりとし、戦国時代が始まりました。

 韓・魏・趙は晋が分裂してできた国なので三晋とも呼びます。次回は、戦国時代中期絶頂期を迎えた趙の武霊王と『胡服騎射』に付いて語りましょう。