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春秋戦国史外伝Ⅰ  国士予譲

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 晋が韓・魏・趙三国(三晋と呼ぶ)に分裂して数年が経ちます。晋陽の戦いで宿敵知瑶を滅ぼした趙襄子(無恤)も、今は苦しい戦乱の時を忘れ国作りに邁進しました。

 趙襄子は長年苦しめられた知瑶を憎み、頭蓋骨に漆を塗り酒器にしていたそうです。敵を辱めるために(あるいは呪術的意味もあったと思われる)殺した敵の頭蓋骨を酒器にするのはもともとの漢民族の風俗ではなかったように思います。どうもスキタイをはじめとする北方の遊牧民族独特の風習のような気がしてなりません。趙氏の興隆は初代趙衰が晋の文公重耳に付き従い亡命生活を共にした事から始まっています。趙衰の後を継いだのは息子の趙盾でしたが、その母親は狄人でした。重耳が狄に亡命した際、族長の長女を重耳が娶り、次女を趙衰が娶ったのです。

 趙衰は、主君重耳が晋公に即位した後彼の娘を正室に貰っており趙同、趙括、趙嬰斉と三人の息子をもうけます。庶流の趙盾は本来趙家を継ぐ資格はありませんでしたが、有能だったため実質的に趙氏を継ぐことになりました。そのため趙氏が趙盾の子趙朔の代で一時滅ぼされるのも元々は複雑な趙氏のお家騒動が原因でした。

 ですから趙襄子には遊牧民族である狄人の血が流れていたのです。それが頭蓋骨の酒器となったのかもしれません。わが国では織田信長朝倉義景浅井久政・長政父子の髑髏杯を作っていますがこの場合は物知りな仏僧が教えたのか、並はずれた憎しみから出た信長の独創だったかは分かりません。

 新しい国作りをする趙襄子でしたが、その中には諸侯にふさわしい宮殿建設も含まれました。ある時趙襄子は建設中の宮殿を視察し厠に入った時胸騒ぎを感じます。部下に調べさせると厠の壁を塗っていた罪人が匕首を持って潜んでいました。その男は、知瑶の側近だった予譲でした。姓名を変え、罪人と偽り紛れ込んでいたのです。いつか主君の仇を取る事を望んで。

 部下たちは即座に殺そうとしますが、暗殺犯が予譲だと分かると趙襄子はこれを止めました。「義人じゃ、助けてやれ」この一言で予譲は許され解き放たれます。趙襄子も妾腹から出ていたため人の痛みが理解できる男でした。自分にとって知瑶は憎むべき敵でしたが、予譲にとっては大切な主君なのです。

 しかし予譲は仇討ちを諦めませんでした。体に漆を塗って癩病者に見せかけ炭を飲んで唖のような声になって乞食の群れに投じます。そして執念深く復讐の機会を待ちました。物乞いをしてかつて予譲が住んでいた屋敷に立ち寄りますが、彼の妻は夫の正体に気付きませんでした。ところが彼の親友はそれが予譲だと見破ります。

 親友は「君ほどの者なら趙襄子に臣下の礼をとって近づけば重用されるだろう。そうしておいて復讐の機会を待った方が良いのではないか?」と当然の疑問を投げかけました。それに対し予譲は
「すでに臣下の礼をとっておきながらこれを害するのは義に反する。実際私が取る方法は至難の道だが、後世臣下でありながら主君に二心を持つ者を戒めるためにこうしているのだ」と答えました。

 しばらくして趙襄子が馬車で出かけると、橋の袂でまたしても胸騒ぎを覚えます。調べさせるとやはり予譲でした。引き出された予譲に趙襄子は尋ねました。
「そなたはかつて范氏、中行氏に仕えていた事があるそうだな。知瑶がこれを滅ぼしたのにこの時は主君の仇を奉ぜず何故知瑶の時だけ仇を討とうとするのだ?」
 予譲は静かに答えます。
「范氏、中行氏は私を並みの臣下としてしか遇しませんでした。ゆえに並みの臣下として報いました。しかし知伯様は違います。国士として私を遇していただいた故、私も国士としてこれに報いようと思ったのです。『士は己を知る者のために死す』と申します」

 これを聞いた趙襄子は嘆息して言いました。
予譲よ、そなたの忠義はよく分かった。しかし、もうそなたを許すことはできない。死ぬ前に最後の望みを叶えよう。なんなりと申すがよい」
 予譲はこれに対し「貴方様の衣服を頂きたい」と願い出ました。側近から受け取った衣服に対し剣を抜くと三度斬りつけます。そして「これで地下の知伯様に顔向けできます」とニッコリほほ笑みそのまま剣に伏して自害しました。


 心ある者は予譲の忠義と死を伝え聞いて涙を流さぬ者はなかったそうです。後に史記を記した司馬遷も感動した一人で史記刺客列伝にこの話を採用しています。知瑶は冷酷非情で敵に対しては容赦ない男でしたが、予譲のような国士の心を掴んでいたのですからやはり一廉(ひとかど)の人物ではあったのでしょう。そして一度は予譲を許した趙襄子もまた偉大な君主でした。