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春秋戦国史Ⅸ  晋の分裂(前編)

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 春秋時代を通じて、楚と並ぶ超大国だった晋。しかし覇者文公の子襄公(在位BC628年~BC621年)の晩年には早くも公室の力には陰りが見え始めました。文公に付き従い亡命生活で苦労した建国の功臣趙衰と狐偃の息子たちである趙盾(ちょうとん)と狐射姑(こえきこ)はそれぞれ中軍の将、中軍の佐となります。晋では軍の指揮官が平時の大臣を兼ね、中軍将が正卿となりました。他国の宰相にあたります。

 その下の中軍佐、上軍将、上軍佐、下軍将、下軍佐が大臣となって晋の国政を司りました。分かり易く日本に例えると中軍将が日本で言うところの太政大臣、中軍佐以下が左右大臣、内大臣に当たります。BC621年襄公が亡くなると趙盾は襄公の弟公子雍を推し、狐射姑は同じく襄公の弟公子楽を推しました。両者の争いは結局趙盾が勝ち、敗れた狐射姑は狄に亡命します。

 そればかりか趙盾は、後々災いの種になる事を恐れ公子楽まで暗殺したのです。これは晋の諸臣の反発を招きます。恐れた趙盾は、公子雍すら追放し結局幼少の襄公の遺児夷皋(いこう)を立てました。すなわち晋の霊公(在位BC620年~BC607年)です。

 霊公は、即位の経緯から独裁権力をふるう趙盾を警戒します。趙盾自身は身を修め謙虚な政治を行おうと心がける人物ではありましたが、その存在自体が霊公にとっては疎ましかったのでしょう。両者の対立は霊公が成人に達し自ら政治を執るようになって決定的になりました。霊公は趙盾を暗殺しようと刺客を放ちます。恐れた趙盾は亡命しようと国境に向かいますが、霊公のやり方に怒った従兄弟の趙穿が霊公を殺したため戻りました。

 趙盾は、襄公の末弟黒臀を立てます。晋の成公(在位BC607年~BC600年)です。趙盾存命中は彼を恐れ誰も趙氏の権力に楯突く者は居ませんでしたが、趙盾が死に病弱な息子趙朔が後を継ぐと趙氏には厳しい目が注がれました。成公の子景公は、司宼(しこう、法務大臣)の屠岸賈(とかんが)に命じ趙朔とその一族を討たせます。趙盾が霊公を弑殺した罪を糾弾したのです。趙朔にとってはとばっちり以外の何ものでもありませんが、もともと病弱だった趙朔は、屠岸賈の兵に屋敷を包囲されている最中亡くなりました。趙氏の一族は女子供に至るまで虐殺されたそうです。

 ただ、趙朔の正室で先君成公の姉だった趙姫(趙氏に嫁いだ晋公室【姫姓】の公女という意味)だけは、公室所縁だということで許されます。ところが彼女は趙朔の子を身籠っていました。生まれた子は男子でした。趙の遺臣が秘かに引き取り育てます。そして趙盾の友人だった司馬(軍の司法を司る)の韓厥(かんけつ)が保護しました。

 BC583年、景公が病に倒れ占うと『大業の後裔で祀の絶えた者が祟りをしている』と出ました。そこへすかさず韓厥が進言し趙朔の遺児が生きている事を告げます。弱気になっていた景公は、これを受け入れ遺児を呼び出しました。趙氏は旧領を与えられ再興します。これが趙武(BC597年~BC541年)です。同時に屠岸賈は、諸将の兵に攻め滅ぼされました。彼は景公の命を実行しただけの被害者のようにも見えますが、趙氏一族惨殺が世間では憎まれていたのでしょう。史書においては屠岸賈を奸悪な人物として描いていますが、真相は分かりません。一番悪いのは景公だと思います。景公も負い目があったから趙氏の再興を許したのでしょう。

 趙武のお家再興には感動的なエピソードがありますが過去記事で紹介しているのでここでは書きません。気になる方は
をご覧ください。

 趙武は、趙の宗室を継いで27年後晋の正卿(宰相)となります。晋は平公(在位BC557年~BC532年)の時代でした。この頃、呉から有名な延陵の季子(季札)が使者として晋を訪れます。彼は、
「晋国の政治は趙武(文子)、韓起(宣子、韓厥の庶子)、魏舒(ぎじょ、献子、建国の功臣魏犨の後裔)の子孫の手に帰するだろう」と予言しました。
 後にこの予言は実現します。晋は彼らの子孫の手で滅ぼされ三分割されるのです。その前に、韓・魏・趙三氏以外で六卿(6人の大臣)の熾烈な権力争いに生き残った三氏について簡単に紹介しようと思います。



◇中行氏

 晋国随一の名門荀氏の嫡流。邲の戦いの時の正卿だった荀林父の子孫。孫の中行偃(ちゅうこうえん、?~BC554年)の時代に絶頂期を迎える。正卿となり厲公を弑殺するなどマイナス面も大きかったが、その後中行呉(穆子)、中行寅(ちゅうこういん、文子)と続く。



◇知氏

 荀氏の庶流。荀林父の弟荀首(知荘子)から始まる。分家ではあるが、荀氏自体が名門であるため大きな勢力を持つ。知首、知罃(武子)、知朔(荘子)、知盈(悼子)、知躒(ちれき、文子)、知宣子(諱【いみな】は不明)と続き、知瑶(ちよう、襄子)の時代には本家中行氏どころか他の六卿をも凌ぐ巨大な勢力を誇る。その実力は、諸侯国の鄭よりも上だと評された。



◇范(士)氏

 士氏の分家。有名な士会が范に封じられたため范氏を称す。士会の子孫である范氏の方が繁栄し、范燮(文子)、范匃(宣子)、范鞅(献子)、范吉射(はんきっせき、昭子)と続く。






 大国晋は、どのようにして分裂したのでしょうか?次回は知氏の台頭と晋陽の戦いを描きます。