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春秋戦国史外伝Ⅲ  秦の滅亡

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 本来であれば『春秋戦国史』は周の東遷から始まって秦の始皇帝による大陸統一で終わっているんですが、過去記事の『前漢帝国の興亡』との間を埋める意味で今回秦王朝の滅亡を描こうと思います。

 支那の歴史上初めて大陸を統一し強力な中央集権国家を作り上げた秦の始皇帝(在位BC246年~BC210年)。その不幸な生い立ちから人間不信に陥り冷酷非情な君主となりました。実の母からも裏切られたのですからある意味同情すべき部分もあるのですが、その怒りは焚書坑儒という思想統制に至り、峻厳な法の適用となります。法律に違反したらすぐ斬刑となったら人民はたまったものではありません。それが自然現象による不可抗力であっても情状酌量の余地などないのですから人々の暮らしは厳しくなります。

 始皇帝の法の執行者は丞相(宰相)である李斯(?~BC208年)でした。性悪説で有名な儒家荀子の下で学び相国呂不韋食客となります。嫪毐(ろうあい)の乱に連座し失脚した呂不韋とは上手く立ち回り離れることに成功。秦王政(のちの始皇帝)の下で順調に出世し最後は丞相まで上り詰めました。

 ある時、同じ荀子の同門で韓の公子韓非子(同名の法家の書物で有名)の名前が評判になると秦王政は彼を迎えて丞相にしようとします。才能では遠く及ばない事を知っていた李斯は韓非子を讒言し無実の罪で処刑させました。そういう悪の部分もある人物なのです。が、専門の法律に関しては有能で度量衡の統一や郡県制の施行に努力し始皇帝の信頼を勝ち取ります。

 天下を統一しやる事がなくなった始皇帝は、自身の帝国が永遠に続く事を願って不老長寿を求めました。そのために怪しげな方士(現代で言えばスピリチュアル系の胡散臭い連中)が出入りし始皇帝にある事ない事吹き込みます。中には徐福のように始皇帝を騙し不老不死の仙薬を求めるために一万人の少年少女を乗せて蓬莱島に船出する者まで出てくる始末でした。ちなみに蓬莱島は日本の事ではないかという説もあり、日本各地に徐福伝説が残されています。

 方士の一人、廬生は「不老不死を求めるなら真人と出会わなければなりません。真人は他人が居るところには現れません」ととんでもない進言を行います。真に受けた始皇帝は群臣を遠ざけ、丞相李斯との連絡には宦官を使いました。宦官は人でないので真人も降りてくるだろうと考えたのでしょう。そのため趙高という一人の宦官が台頭しました。穿った見方をすると趙高が政治の実権を握るために廬生と組んだ陰謀とも言えます。

 始皇帝の意志を伝える事が出来る唯一の存在として、趙高は丞相李斯にも勝る絶大な権力を得ました。趙高は本来なら後を継げないはずの始皇帝の末子胡亥(こがい)にも教育係として接近します。すでに太子として嫡男扶蘇がいました。始皇帝胡亥を溺愛するのを見て趙高は彼に将来を賭けたのでしょう。

 扶蘇は温厚篤実な性格で群臣からも将来のニ世皇帝としてふさわしい人物だと見られていました。秦の皇族としては珍しく儒家にも理解がある事から学者からも即位を待望されていたくらいです。しかしその優しさが仇となりました。あるとき扶蘇は父の焚書坑儒に意見し止めさせようとします。これが始皇帝の逆鱗に触れました。

 趙高は、絶好の機会を見逃さず始皇帝に進言します。「太子はどうも政治の厳しさを理解されていないようです。幸い蒙恬(もうてん)将軍が匈奴に備えて北地(黄河湾曲部内側の北、オルドス地方)に二十万の兵と共に駐屯しております。太子をそこへ派遣し世間の厳しさを学ばせられたらいかがでしょう?」
 始皇帝扶蘇の甘さを叩き直すには良い機会だろうとこの進言を採用しました。邪魔者を排除した趙高は、胡亥を始皇帝の手元に置き次の機会を待ちます。

 始皇帝は、その晩年不老不死を求め、あるいは統一した各国の現状を見るため全国を巡幸しました。同行したのは末子胡亥と丞相李斯、そして趙高です。その最中、呉では項羽始皇帝の行列を見て「我取って代わるべし!」と叫び、首都咸陽に徭役に来ていた劉邦は「大丈夫たる者、ああなりたいものだ」と感嘆しました。張良始皇帝暗殺を図ったのもこの時です。

 BC210年、始皇帝は巡幸途上の河北省平原で病気になります。方士が調合した怪しげな仙薬の影響かもしれません。伝えられるところによると、仙薬と称するものの中に明らかに水銀が含まれていました。病は日に日に重くなり、死期を悟った始皇帝は枕元に趙高を呼び寄せ遺言を渡しました。当時は紙がありませんから竹簡か絹布に書いた物だったと思います。遺言書には「後事を太子扶蘇に任す」と書かれていました。

 いよいよとなった時、同行していた唯一の実子胡亥が呼ばれます。始皇帝は胡亥と趙高に看取られ48年の生涯を終えました。趙高は胡亥に遺言の中身を話します。太子扶蘇が後を継ぐのは当然でしたので胡亥にも異論はありませんでした。ところが趙高は胡亥の袖を捉えて囁きます。

 「今扶蘇太子が即位されたら貴方様はどうなりますかな?秦では皇位継承に障害となる兄弟は死を賜るのが通例。貴方様もそうなるのですぞ」

 趙高の脅しで現実を思い知った胡亥は「嫌だ、私は死にたくない」と叫びます。趙高はさらに畳みかけました。「幸いにしてこの秘密を知っているのは私と貴方様だけ。死を免れるには貴方がニ世皇帝に即位されるしかありませんぞ」
 「遺言を偽造するのか?」事の重大さに胡亥は青くなりますが、結局趙高の説得に負けました。さらに趙高は続けます。「これには丞相の李斯も巻き込まなければなりますまい」その後李斯も呼ばれました。

 さすがに李斯は最初断ります。「そなたは謀叛を起こすつもりか?」と激高したそうです。しかし、趙高の説得は蜘蛛の糸に絡め取るように巧妙でした。「扶蘇様が即位されたら丞相は誰になりますかな?後見役の蒙恬殿でしょう。蒙恬殿は政治の経験はないが軍才はある。丞相になったら貴方くらいにはやれるでしょう。しかし貴方は蒙恬ほどの軍才はありますか?」
「…ない」李斯は吐き捨てました。結局李斯もまた陰謀の共犯者となります。

 時は7月。夏ですから始皇帝の遺骸は腐ります。趙高は、腐臭を隠すため皇帝の馬車の周りに臭い干物を満載した車を並べ、その中で一人皇帝に成り代わって座り続けたと言いますから超人的な努力だと言えます。この陰謀のからくりは始皇帝が首都咸陽に着くまで生きていないと成り立たないからです。

 一行が都に到着すると同時に、始皇帝崩御が発表されました。胡亥は偽造した遺言によりニ世皇帝として即位します。同時に、太子扶蘇蒙恬には始皇帝の遺言として自害を命ずる詔勅が下りました。蒙恬は慌ただしい都の動きから、命令自体を疑い扶蘇に自害を思いとどまるよう説得します。しかし孝心篤い扶蘇は「父の遺言を疑うのは孝に反する」と従容と自害しました。蒙恬は最後まで抵抗しますが、捕えられ処刑されます。

 趙高は功績により郎中令(九卿の一つ。宮門を司る。)に任じられました。趙高は考えの足りないニ世皇帝胡亥を丸めこみ、贅沢三昧の生活に溺れさせます。代わって趙高が皇帝の意志と称して政治を行うのです。その際、邪魔になるのは丞相李斯でした。即位の陰謀の秘密も知っているのですからいずれ除かなければならない存在だったのです。

 BC208年、李斯もまた謀叛の罪を着せられ三族ことごとくが斬られます。処刑の時、李斯は息子を顧みて「またお前と故郷で狩りをしたかったな。悪人どもの陰謀に乗せられたのが生涯の痛恨事だ」と話したそうです。しかし、始皇帝が亡くなった時、李斯が法律に則り謀叛人として趙高を斬っておけば自分と一族が殺されることはなかったはずです。丞相の地位は追われたかもしれませんが、引退して悠々自適の晩年をおくれたはずなのです。結局、李斯もまた権力欲に取りつかれた哀れな人間だったのかもしれません。

 秦は、ニ世皇帝になっても始皇帝時代から続いた巨大な土木工事が続けられます。匈奴の侵略を防ぐ万里の長城は理解できるとしても、皇帝の贅沢にすぎない阿房宮兵馬俑で有名な始皇帝陵の建設は駆り出される人民にとっては迷惑この上ありません。しかも期日に間に合わなければ法により殺されるのです。怨嗟の声は国中に広がりました。各地で反乱が起こりますが、趙高はニ世皇帝に真実を知らせず酒色に溺れさせました。そして皇帝に直言しようとする忠義の士には謀叛の罪をでっちあげて殺すのです。このような状況では国が保てるはずはありません。

 BC209年起こった陳勝呉広の乱は一時名将章邯将軍によって鎮圧されようとしますが、今度は皇帝に反乱の実態を知られる事を恐れた趙高によって章邯が謀叛の罪を着せられるのです。結局、反乱の中で台頭してきた項羽は、巨鹿の戦いで章邯を降します。章邯としても謀叛を疑われては戦意などなかったでしょう。一方、劉邦は防備の固い函谷関ではなく裏手の武関から関中盆地に侵入しました。

 ここまで来ると、趙高にも秦王朝の滅亡が分かります。趙高は、傀儡のニ世皇帝を殺し劉邦と秦の地を分けようと勝手に停戦交渉を始める始末でした。この暴挙はさすがに秦の群臣の怒りを買います。趙高は新たな傀儡として亡き太子扶蘇の遺児子嬰(?~BC206年)を担ぎ出そうとしました。しかし、逆に群臣たちと相談した子嬰に屋敷に呼び出されそこで殺されます。趙高の一族はことごとく誅殺されました。

 即位した子嬰は、皇帝と名乗る実なしとして王と称します。この子嬰が劉邦と交渉し降伏しました。BC207年の事です。劉邦子嬰の立派な態度を見て処刑を取りやめます。この時が秦王朝の滅亡でした。劉邦は、子嬰を殺しても何の得もない事を十分理解していました。それより秦の国民の支持を得るために『法三章』に代表される穏健な統治を行います。おそらくこの頃から天下への意志があったのかもしれません。ところが後から入ってきた項羽は、さっさと子嬰を処刑し阿房宮に火を放ちました。始皇帝の陵まで暴き秦累代の財宝を本拠地の楚に運びます。

 この占領政策の差が、劉邦項羽の明暗を分けました。論功行賞で蜀(四川省)に押し込まれた劉邦が関中盆地に戻ってきたとき秦の国民は大歓迎します。以後、楚漢戦争を通じて秦の故地である関中盆地は漢の策源地であり続けました。劉邦項羽を滅ぼして天下を統一した時、都を咸陽に近いところに建設し長安と名付けたのも関中の地がもっとも政治的に安定したところだったからでしょう。