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春秋戦国史外伝Ⅱ  荊軻(けいか)と高漸離(こうぜんり)

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 戦国時代末期、秦が天下統一する直前の話です。燕の太子丹(?~BC226年)は国の使節として秦に赴きました。かつて秦王政も太子丹もともに趙の都邯鄲で人質生活を送り、境遇が似ている事から親友として交流していたため今回も暖かく迎えてくれるものと思っていました。ところが秦王政は太子丹を単なる弱小国の使節として冷たく扱います。衝撃を受けた丹は、秦王政がいずれ燕にも侵略の魔の手を伸ばしてくると覚悟して帰国しました。

 太子丹は、帰国すると重臣鞠武(きくぶ)に相談します。鞠武はまともに秦と軍事的に対抗するのは不可能だから三晋(韓・魏・趙)や斉、楚そして秦北方の脅威となりつつあった遊牧民族匈奴と同盟して当たるしかないと献策しました。そんな中、秦の将軍樊於期(はんおき)が秦王政の不興を買って燕に亡命して来ます。鞠武はお尋ね者の樊於期を受け入れたら秦に侵略の口実を与える事になると反対しますが、丹は樊於期の窮状を憐れみ亡命を認めました。

 鞠武は、秦との対決は避けられないと覚悟し太子丹に田光を紹介します。田光は当時の侠客で広い人脈を持っていたと思われます。太子丹が田光に会うと、彼は秦王を倒すには非常手段しかないと語ります。そして重大任務にふさわしい男として荊軻を紹介しました。太子丹は、田光と別れる時「この事は国家の重大事ゆえ決して口外なさらぬよう」と念を押します。もとより田光も承知でしたが、わざわざ念を押された事で誇りを傷つけられました。田光は太子丹と別れた後自刎します。

 田光が認めた荊軻とは一体どのような人物だったでしょうか?荊軻は衛(山東省西部、黄河沿い)出身だと云われます。酒好きで遊侠の徒と付き合いますが、決して自ら争い事を起こしませんでした。燕に来てからは筑(琴に似た楽器)の名手高漸離と親友になります。古代支那では侠の繋がりは血よりも濃く命を賭けても惜しくないと考えられていました。二人の交流もそのようなものだったのでしょう。

 太子丹と会った荊軻は、「暗殺するためにはまず秦王と会わなければいけません。今お尋ね者の樊於期が燕にいます。彼の首を持参すれば秦王も会おうとするでしょう」と語りました。しかし丹は「樊将軍は我が国を頼ってきた者だ。それを殺すなど私にはとてもできない」と断ります。そこで荊軻は秘かに樊於期を訪れました。

 樊於期は荊軻の話を聞き、「秦王に一矢報いる事が出来るなら」と喜んで自刎しました。翌日荊軻樊於期の首を持って現れると太子丹は衝撃を受けますが、事ここに至っては覚悟を決め荊軻を燕の外交使節として送り出します。太子丹は、荊軻一人では不安だからと武勇で名高かかった秦舞陽を付けます。最初荊軻秦舞陽がいざとなったら怖気づく性格だと見抜き難色を示しますが、丹のたっての頼みですから承知しました。

 荊軻は死を覚悟し、それまで交流のあった人々と別れの挨拶をします。BC227年、太子丹をはじめ荊軻に所縁の人々は白装束で易水のほとりまで見送ったそうです。その時荊軻は船上で有名な詩を吟じます。
「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還らず」

 秦の都咸陽に到着した荊軻一行は、樊於期の首と燕で一番肥沃な督亢(とくこう)を割譲すべくその地図を持参したとして秦王への謁見を願い出ました。願いは入れられ荊軻は秦王政の元に案内されます。副使の秦舞陽はその後起こる惨劇を思いぶるぶる震えだしました。不審に思った秦の廷臣が尋ねると、荊軻は「田舎ものゆえ天子の前に出て緊張しているのです。捨て置きください」とごまかします。

 秦王政は、憎んでいた樊於期の首を見て喜びました。荊軻が「割譲する督亢の地図です」と巻物を開き始めてもろくに見ていませんでした。すると巻物の中から匕首が出てきます。秦の法律で王の御前では誰ひとり武器を持ってはいけなかったため荊軻が考えた必殺の策でした。

 荊軻は、突然秦王の袖を取って匕首で突きます。しかしそれは秦王を傷つけただけで致命傷には至りませんでした。逃げる秦王を荊軻は追います。突然の出来事に秦の群臣は驚き慌てるばかりでした。すると秦王の侍医がとっさに薬箱を荊軻に投げつけ「陛下、剣を背負われよ」と叫びます。この場所で剣を帯びていたのは秦王一人でしたが、急なことで慌てて剣が長すぎ抜けなかったのです。この一言で我に返った秦王は剣を抜いて荊軻に斬りつけます。そこへ急報を受けて駆け付けた衛士たちが一斉に襲いかかったため荊軻は無数の剣を受けて絶命しました。その間秦舞陽は立ちすくんで震えるだけだったと云われます。もし秦舞陽が体を張って衛士の接近を阻止していたらこの時秦王暗殺は成功していたかもしれません。秦舞陽もなすすべもなく斬られました。

 この一件で秦王政は怒りを増幅させます。秦軍は燕に侵攻し国土を蹂躙しました。恐怖した燕王喜は息子である太子丹を殺して首を差し出しますが、その時は一時的に許されても結局4年後のBC222年亡命先の遼東を秦軍に攻められ滅亡しました。太子丹の秦王政暗殺計画は単に燕の滅亡を早めただけに終わりました。


 数年後、秦王政は天下を統一し始皇帝と名乗ります。荊軻所縁の人々は暗殺犯の身内という事でお尋ね者になりました。親友高漸離も徐卓と偽名を名乗り宋子(河北省石家荘の東南)に潜みます。ところが筑の名手として評判になり始皇帝はこれを召しだそうとしました。調べてみると暗殺犯荊軻の親友だと分かります。殺すには惜しいと思った始皇帝高漸離の両目を潰して近くに召し筑を打たせました。光を失った事で高漸離の筑は哀切を帯びさらに幽玄な音色になります。始皇帝高漸離の筑を聞くのが楽しみになってきました。

 そんなある日、高漸離の筑はいつにもまして悲壮な響きを帯びます。始皇帝が聞き惚れていると築が突然鳴りやみました。その瞬間、高漸離は立ち上がって愛用の筑を始皇帝めがけて投げつけます。筑に鉛を入れ親友の仇を討つ機会を待っていたのです。しかし悲しいかな目が見えなかったため狙いが外れます。高漸離は捕えられ車裂の極刑に処せられました。

 これが侠です。仲間のためには命も惜しまない。その後、漢の劉邦を助けて天下を統一に貢献した軍師張良も若い頃始皇帝暗殺を図って失敗し侠の繋がりで匿われます。張良をこの時危険を顧みず匿ったのが項羽の叔父項伯でした。そのために項羽一族が劉邦に滅ぼされた時項伯だけは張良のおかげで助かったと云われます。

 この侠は、のちに幇(ぱん)という組織になって現在に至りました。