鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

小袖餅と名和一族

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家系図武家家伝播磨屋さんから転載

 

 最近はほとんど行かなくなりましたがJR熊本駅に寄ると売店で『小袖餅』なるものを買っていました。通常のお餅の4分の1くらいの大きさで一口サイズ、中には甘いあんこが入っています。これとお茶を買って帰りの電車に乗り込むのが何よりの楽しみでした(笑)。

 ところでこの餅がなぜ小袖餅と呼ばれるか面白いエピソードがあります。



【小袖餅の由来】
永正十四年の或日宇土城主名和伯耆左衛門尉は民情を見んものと独り忍びで城下を歩かれ、とある町端れの茶店に這入り心ゆくばかり餅を味われました。城主のお顔を知らない茶店の娘静江はさっさっと出て行かれる城主に「お餅代を戴きます」と申しました。城主はお金が無いのに気付、ほとほと困られ遂に小袖を切って「是を持って城内に来い。さすれば餅代をとらす」と言って立ち去られました。小袖の紋で城主であることを知った娘静江は自分の無礼の罰が母に及ぶ事を恐れ、其夜城内に忍び込み母を救けて私独り成敗して下さいと嘆願いたしました。城主は静江の孝心に感激せられ、小袖と沢山のお金を下し置れました。それから静江の孝心と餅の美味を賞へて誰言ふとなく「小袖餅」と名付けられ次の様な俗謡さえ流行しました。“餅は餅でも小袖の餅は、可愛い静江の味がする”。


 熊本県宇土市の名産らしいのですが、ここで出てくる名和氏と聞いて日本史ファン、とくに南北朝時代ににくわしい方はピンときたのではないでしょうか?


 そうです。この宇土城主名和氏は後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を滅ぼした伯耆(現鳥取県西部)の豪族名和長年の子孫です。


 建武の新政時、功により名和長年の嫡男長興は肥後八代荘の地頭に補されます。そのほかにも名和一族は全国各地の所領を得たとは思いますが、足利尊氏の台頭とともに各地の所領は北朝方の武士に横領され、まだ曲がりなりにも南朝の力が強かった九州肥後に一族こぞって下向してきました。

 正平十三年(1358)、長年の孫顕興の時代だといいます。名和一族は本拠の古麓城(八代市)を中心に八代郡と芦北郡、それに益城郡の一部を領し、征西将軍宮懐良親王と肥後の豪族菊池武光を助け九州南朝最盛期を築きます。


 しかし南北朝時代が終わり室町に入ると次第に衰退し、戦国時代肥後守護の菊池氏が内訌で支配力を失うと球磨郡から伸長してきた相良氏と芦北郡の支配をめぐって争います。


 何度か八代の支配者が変わるほどの激戦でしたが、最後は時の肥後守護菊池武運(たけゆき、のち能運よしゆきと改名)の斡旋で八代郡を相良氏に譲る代わりに宇土郡を与えられます。文亀三年(1503)頃だと伝えらます。


 これが宇土城主名和氏の始まりです。その後も旧領八代郡奪回を図って相良氏と何度も戦ったそうですが、失地回復はできず、ついに豊臣秀吉の九州攻めが起こります。そのころには相良氏も名和氏も北上してきた島津氏に屈していたようですが、秀吉にいち早く拝謁し本領安堵を勝ち取ります。


 ただ、これで安泰ではありませんでした。まもなく秀吉から肥後一国を賜った佐々成政が入部してくると強引な検地に反抗して肥後の国衆(肥後各地に割拠していた在地領主たち)が一揆を起こします。

 いわゆる肥後国一揆です。しかしこのとき名和氏の当主顕孝は荒尾筒ヶ岳城主・小代親泰、隈本城主・城久基とともに大坂城に召還されていたため奇跡的に難を逃れました。

 秀吉の真意は、自分と農民の間に立ちはだかる中間搾取層だったこういう地侍たちの撲滅にありましたから、中立を保っていてもいずれは滅ぼされる運命にあったのです。実際一揆が鎮圧されたあと五十二人いたとされる肥後国衆のうち生き残ったのはこの三家だけでした。


 ただ名和氏も宇土城主として領地に留まることはできず、筑前に五百町与えられ小早川家に従います。その後豊臣秀次福島正則に仕えたそうですが最後は筑後国山本郡の千光寺に隠棲しました。慶長十三年(1608)に死去。


 顕孝の子、長興は筑後柳川藩立花氏の客分となり先祖の故地の名をとって伯耆氏と改めます。のち名和姓に戻り明治維新を迎えました。明治十一年(1878)、名和長恭は南朝の忠臣であったという由緒から、名和神社宮司に任ぜられて男爵を授けられたそうです。