対馬が邪馬台国の時代から日本の一部である事は魏志倭人伝にも書いてある通り間違いありません。韓国が最近対馬は本来韓国領で日本がそれを奪ったなどと妄言を吐いてますが、歴史資料上からも民族学的にも嘘である以上日本は猛烈に抗議しなければならないのです。
李氏朝鮮は1392年女真族とも云われる李成桂によって建国されましたが、その力は弱く早くも1393年には明の属国となり(このあたりは伝統芸ですね 苦笑)、権治朝鮮国事(明の皇帝の代理として朝鮮を治める代理王)に封ぜられます。
倭寇に悩まされていた朝鮮は、日本に使者を送り室町幕府や九州における出先機関である九州探題渋川満頼に倭寇取締りを依頼しました。しかし歴史に詳しい方ならご存知の通り幕府も九州探題も統制力が弱く実質的にはあまり効果がありませんでした。
それでも対馬守護代宗貞茂(?~1418年)が生きている間は、朝鮮貿易の利を考えある程度倭寇を抑えていました。ところがその貞茂が病死し息子の貞盛(1385年~1452年)が跡を継ぐと事情が変わってきます。家督を継いで間がない上に若年であったので家中の統制力が弱く、有力な家臣であった倭寇の首領早田左衛門太郎は当主を舐めふたたび倭寇活動を活発化させます。
李氏朝鮮では四代世宗(1397年~1450年、ハングルを作った人)が即位していました。世宗は朝鮮史では名君の誉れ高い人物ですがよく調べてみると外交はぐだぐだで世界史的にはとても名君と呼べる人物ではなかったと私は思います(反論は受け付けない)。まあ属国の王としては無難な人物だったというのが実情でしょう。
倭寇に悩まされていた朝鮮は、その一大根拠地である対馬を攻撃し倭寇の主力を壊滅させる事を考え始めます。ところがまともに戦っては勝てないと恐れたのか対馬守護代宗貞盛の留守(上洛していたという説、あるいは明に出向いていたという説あり)を狙って攻めるという姑息な手段を用いました。
1419年6月将軍李従茂率いる一万七千の兵が227隻の軍船に乗り巨済島を出港します。一応その一月前に対馬に最後通牒を送ったとされますが、敵の総大将の留守を狙うような姑息な国が本当にそうしたのか疑問です。現在の彼らの行状を考えると自分を正当化するための捏造の可能性もあります。
朝鮮軍はその後浅茅湾を東行しこれも倭寇の拠点の一つ小船越へ上陸しました。当時対馬の宗軍はわずかに600。まともに戦っては勝てないので朝鮮軍を内陸部に引き込む作戦を取ります。宗軍は糠岳に立てこもったとされますが、地図を見てもどの山か確認できません。一応糠という地名があるのでその付近の山なのでしょう。地図を見ると仁位川を挟んだ朝鮮軍進行路の対岸の山(西側)ではないかと推定します。
通常の軍事常識で言えば朝鮮軍にとっては負けようの無い戦でした。が、実際に戦ってみると宗軍の兵士の放つ矢は百発百中であるのに対し、朝鮮軍の矢はへろへろで途中で落ちたそうです。宗軍が高台に位置し、仁位川を渡河攻撃するという不利はあったにせよあまりにもお粗末な朝鮮軍でした。
しかも地の利に明るい宗軍は、夜陰に乗じて奇襲攻撃を加え朝鮮軍に大打撃を与えます。特に日本刀の切れ味は抜群で鎧の上からでもスパッと斬るので、朝鮮兵は宗軍の突撃を見ると我先に逃げ出したそうですから情けない。結局朝鮮軍は2500というあり得ないほどの損害を出します。一方宗軍の戦死者は百数十名。
あまりの損害に驚いた敵将李従茂は、尾崎浦まで一時撤退します。戦局はそのまま膠着状態に陥りました。そんな中6月29日朝鮮側は、宗貞盛に対し対馬を属州化させるよう要求します。負けて逃げ帰っているくせにいい根性しているとは思いますが(苦笑)、宗氏は当然これを拒否。現実認識能力の無さは民族の伝統芸と化していますね。
戦後、この戦により宗氏は朝鮮と断交します。倭寇はますます活動を強化させ結局何のために遠征したのか分からない状況になりました。俗に言う藪蛇でしょう。
日本側では、宗氏の報告を受けた九州探題渋川氏が仰天し幕府に注進するとともに確認のため朝鮮にも使者を送りました。朝鮮は室町幕府四代将軍足利義持に使者を送りようやく和解します。このあたり弱腰外交の現在の日本政府と似ていて情けなくなりますね。侵略を受けて日本側も大きな被害を出したのですから厳重抗議しないと駄目でしょう。戦争も辞さず、くらいの覚悟は見せるべきでした。その意味では足利幕府は日本を任せるに値する政府ではなかったと言えるかもしれません。鎌倉幕府なら即報復攻撃します。織田信長も豊臣秀吉も然り。徳川家康は足利幕府と同じ対応をしたかもしれません。
朝鮮軍の遠征大失敗は、当時朝鮮に居た明の商人にも伝わったらしく大笑いされたという記録もあるそうです。そりゃそうでしょう。わずか600の兵(しかも地方軍)に負ける30倍の正規軍など世界史上でも稀有ですから。
真面目な話をすると、このように弱かったから支那の属国にいつまでも甘んじなければならなかったのかもしれません。私は彼らを馬鹿にするより哀れみを感じました。