元寇を受けて鎌倉幕府は鎮西奉行に代わり新たに鎮西探題を設置します。元の襲来に備えるためというのが表向きの理由でしたが、おかげで鎮西奉行だった少弐氏、大友氏はそれぞれ守護国を削られ少弐氏は筑前のみ、大友氏も豊後のみの守護とされました。
探題というのは、訴訟・裁判・軍事・警察という広範囲な職務を管轄し、担当地域内の守護・地頭への指揮・命令権を持つ強力な機関でした。
少弐、大友両氏は、それまでの鎮西奉行としての権限を剥奪された上、守護国も本国のみに限定されたので大きな恨みを持ちました。
この若い探題は、非常に有能な人物だったようです。10年余りの統治で多くの文書を発給し和歌にも秀でた教養人だったと伝えられます。配下の御家人の信望もなかなかのものでした。
1333年、後醍醐天皇の綸旨は九州の御家人たちにも伝えられます。大友・少弐と肥後の菊池氏は挙兵して鎮西探題を共に攻めるよう密約を交わしましたが、英時の統治がまだまだ盤石だと悟った大友・少弐は土壇場で裏切ります。
ところが情勢は大きく動きました。1333年5月に入ると九州にも宮方が六波羅探題を攻め落としたという情報が入ります。少弐貞経、大友貞宗は手のひらを返し反幕府の挙兵をします。両者は後醍醐天皇から綸旨を受けていた島津貞久とともに鎮西探題に攻めかかりました。
情勢は探題英時に明らかに不利でした。味方に付く御家人もなく単独で反乱軍と戦わなければならなかったからです。鎮西探題勢は奮戦するも多勢に無勢、英時は一族郎党240名(一説では340名)と共に博多で自害して果てました。
この時長門にも周防・長門を管轄し鎮西探題の補佐をするために設けられた長門探題の北条時直がいました。最初六波羅を救援するため船で瀬戸内海を進んでいましたが、まもなく六波羅陥落が伝わると鎮西探題の英時と合流しようと西へ戻る途中でした。
鎮西探題もまた滅亡したという報告を受けた時直は絶望します。進退極まった彼は九州の宮方に降伏、まもなく病死したと伝えられます。
しかし、英時の十年以上に及ぶ九州統治は無駄ではありませんでした。英時の養子規矩(きく)高政、糸田貞義らは探題滅亡前に脱出し北条与党の御家人のもとに匿われます。
翌年(1334年)、高政は筑前国規矩郡帆柱山城(北九州市西区帆柱山)で、弟貞義は筑後三池郡掘口城(場所は不明。過去記事ではみやま市の清水山系のどこかでなかったかと考察)で北条氏恩顧の御家人たちの推戴を受けて挙兵しました。
このほか奥州、長門、伊予、日向などで北条残党の挙兵は続きます。
次回、最終章「鎌倉炎上」にご期待ください!