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中世イスラム世界Ⅷ  アイユーブ朝 と英雄サラーフ・アッディーン  前編

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 セルジューク朝の将軍でザンギー(1087年~1146年)という人物がいました。1127年イラク北部のモスル太守に任命されたのを皮切りに実力を蓄えセルジューク朝の混乱をみてシリアに進出、ザンギー朝を建国します。
 
 ザンギーは若いころ政争に敗れ逃亡している時、イラク中部ティクリートの代官ナジム・ウッディーン・アイユーブの元へ逃げ込みます。アイユーブはこれを温かく迎え匿いました。その後ザンギーが自分の王朝を建国すると、今度はアイユーブの弟シール・クーフが誤って人を殺め一族はイラクに居れなくなりました。
 
 昔の恩義を忘れなかったザンギーは、アイユーブの一族を迎え入れレバノン高原北部の神殿遺跡で有名なバールベックの太守に任命しました。以後アイユーブの一族はザンギーに有力な家臣として仕えます。
 
 ザンギーはアイユーブ一族の活躍もあり1144年十字軍国家の一つエデッサ伯領の首都エデッサを落とすなど一躍反十字軍の英雄として躍り出ました。しかし1146年ザンギーは暗殺されてしまいます。ザンギーの死後王朝は二つに分かれ、モスルと北イラクは長男のサイード・ウッディーン・ガーズィーが、シリアは次男のヌール・ウッディーン・マフムード・ザンギー(在位1146年~1174年)が受け継ぎました。
 
 アイユーブ一族は引き続きヌール・ウッディーンに仕えます。このヌール・ウッディーンは王位を継いだ時28歳でしたが、父ザンギーを超える英雄で1149年十字軍国家アンティオキア公国のレイモンド・ポワティエを敗死させ1150年にはエデッサ伯国を滅ぼします。そして1154年父ザンギーがついになしえなかったダマスクスを奪取、首都と定めます。
 
 十字軍の侵略に苦しめられていたイスラム諸国にとってヌール・ウッディーンは救世主とも崇められました。この声望を聞いて十字軍国家エルサレム王国の侵略に悩んでいたエジプトのファーティマ朝は、ヌール・ウッディーンに援軍を要請します。
 
 これに対しヌール・ウッディーンは1163年腹心のシール・クーフとその甥ユースフ(アイユーブの息子)に軍隊を授けエジプトに送り込みました。ところが援軍が着いてみるとエジプトは親エルサレム派と親ザンギー派に分かれて内部抗争の真っ最中でした。反対派がエルサレム軍を引き入れたりしたため当然援軍は上手くいかずこの時は撤退します。
 
 1167年、ヌール・ウッディーンは再びシール・クーフを大将とするエジプト遠征軍を送りだしました。反対派がエルサレム軍を引き入れていたためエジプト・エルサレム連合軍対ザンギー軍の戦いになります。今回は十分に準備していたため激戦の末ザンギー軍が勝利、そのままアレクサンドリアに入城しました。
 
 
 しかし、シール・クーフが上エジプトへ偵察に行った隙を衝いてエジプト・エルサレム連合軍がアレクサンドリアを囲みました。わずかな留守部隊を率いていたのはユースフ。ユースフは巧みな防戦で三カ月の包囲を耐え抜き停戦交渉に入りました。
 
 ザンギー軍、エルサレム軍ともにエジプトから退去するという事で交渉はまとまります。またしても遠征失敗でした。ただこの戦いでザンギー朝にユースフありと評判が高まります。
 
 勘の良い読者なら既にお察しでしょうが、このユースフ・イブン・アイユーブこそ後にエジプト・シリアにアイユーブ朝を開くサラーフ・アッディーン、西洋でいうところのサラディンその人です。
 
 
 1169年、ヌール・ウッディーンは三度エジプト遠征軍を組織します。まさに執念ともいえるものでしたが、親エルサレム派の首魁ファーティマ朝の大臣ディルガムはこの戦いで敗れ殺されました。
 
 ザンギー軍はエジプトへ入城しシール・クーフはファーティマ朝の宰相に任命されます。ファーティマ朝のカリフは実権を失いただの飾り物になりました。ところが得意の絶頂にあったシール・クーフは1169年3月23日食べ過ぎが原因で急死してしまいます。
 
 
 叔父の死から三日後、ユースフはファーティマ朝の宰相(ワジール)に就任しました。この時31歳。大国エジプトの権力を一手に握る事になったユースフは今後どのような統治をするのでしょうか?そして主君ヌール・ウッディーンとの関係は?
 
 
 次回、サラーフ・アッディーンの覇業と十字軍との戦いを描きます。