勇敢で激しい性格だったシール・クーフに代わって無口でおとなしいユースフが宰相に就任した時、ファーティマ朝のカリフは御し易いと思ったそうです。ところがそれは致命的な思い違いであった事に間もなく気付かされます。
カリフは、側近とユースフを亡きものにする陰謀をめぐらしていました。ところがユースフはそれを素早く察知し実行犯の宦官を捕え処刑します。そこでカリフは実力でユースフを除こうと黒人の親衛隊5000を使って首都カイロ(当時はフスタート)でユースフ配下の軍と壮絶な市街戦を演じました。この戦いでカリフの勢力を完全に駆逐したユースフは彼を幽閉します。失意の中ファーティマ朝最後のカリフ、アーディッドは1171年病死しました。
1171年8月10日、金曜日の集団礼拝の説法(フトバ)はバグダードの正統カリフの名で行われました。ユースフによるスンニ派回帰宣言です。シーア派のファーティマ朝は完全に滅亡したのです。この日を持ってアイユーブ朝が誕生したといっても良いでしょう。
ユースフは、アーディッドの幼い子供たちを軟禁して外部との接触を断ちます。サラーフ・アッディーンとはアラビア語で『信仰の公正』という意味だそうですが、その名の通りユースフはイスラム国家を統一し異教徒十字軍を中東世界から駆逐する事を生涯の目標としました。ユースフは大国エジプトの主となったのちも清貧に甘んじ身を慎んだといわれています。
エジプトで着々と実力を蓄えるユースフに対し、主君ヌール・ウッディーンは警戒します。自身の十字軍との戦いに従軍を求めたところユースフが断ったので両者の関係は完全に決裂しました。1174年、ヌール・ウッディーンはついにユースフ討伐を決意します。そしてエジプト遠征軍を組織中に熱病にかかり急逝しました。享年56歳。
もし両者の対決が実現していたらどうなっていたでしょうか?私は軍事的才能ではヌール・ウッディーンが一枚上手だったような気がします。ユースフにとって主君の死は複雑な思いだった事でしょう。はたして本当にユースフはヌール・ウッディーンに敵対する意思があったかどうか?一説では遠征に先立ってイエメンを征服したのは万が一の時の逃亡先を確保したのだとも云われています。
ともかく両者の対決は実現しませんでした。ユースフはそのままシリアに入り、幼い子供が後を継いでいたザンギー朝を併合します。
しかしこれを契機にして1189年第三回十字軍が結成されます。イギリスの獅子心王リチャード1世とサラーフ・アッディーンとの死闘は語り草になりました。両者は一進一退の攻防を繰り返し1192年ようやく和睦します。
この戦いで十字軍の完全な駆逐はできませんでしたが、その勢力を地中海沿岸の狭い地域に押し込めることに成功し、ほぼ無力化しました。
翌1193年、十字軍との戦争で精根尽き果てたのかユースフ・イブン・アイユーブはダマスクスでその波乱の生涯を終えました。享年55歳。
以後のアイユーブ朝の歴史を簡単に書き記しましょう。偉大なるスルタン、サラーフ・アッディーン(ユースフ)の死後次男のアル・アジーズが継ぎます。しかし他の兄弟たちとの間に後継者争いが起こり1198年不慮の死を遂げました。
アジーズの死後、ユースフの弟(アジーズの叔父)アル・アーディルが実権を掌握し1202年スルタンとして即位しました。アーディルはキリスト教徒との融和政策を取り、とくにヴェネティアとの海外交易を奨励します。こうして一時平和が訪れました。
ところが1218年には第5回十字軍が来襲。間の悪い事にアル・アーディルは心臓発作で死去しました。後を継いだ息子のアル・カーミルは巨大な王国を完全に掌握できず一時十字軍に対して劣勢に立ちました。1221年ようやく反抗に転じますが、一族の間で内紛が起こり1228年エルサレムを十字軍に譲渡することで和睦しました。
エルサレム奪回は1239年ですから、まだ即位する前だと思いますがサーリフによってようやく成されたわけです。しかしこの頃からアイユーブ軍の主力は軍人奴隷のマムルークが占めるようになり次第に発言権を増してきます。