実はマムルーク朝はモンゴルが作ったと言われたらどう思われるでしょうか?
最初に、マムルーク朝がモンゴルによって作られたという理由を話しましょう。マムルークというのは主にトルコ系が多かったのですが、モンゴルのチンギス汗が中央アジアから西アジア、ロシアを攻め滅ぼした過程でこの土地に住む多くの遊牧民がモンゴル軍に捕えられ奴隷として売られます。これらはシリアやエジプトのイスラム諸国が主に購入しマムルークとして採用します。ですからこれがエジプトにマムルークが大量に存在する理由でもあり、ステップ地帯出身のマムルークたちの多くは親族を殺されモンゴルに恨みを持っていた者が多かったのです。
話はアイユーブ朝末期にさかのぼります。第7代スルタン、サーリフ(在位1240年~1249年)にシャッジャル・アッドゥールという美しい后がいました。彼女はキプチャック草原のクマン族(トルコ系民族)出身で奴隷として仕えていたところをサーリフに見染められ側室となりました。いやイスラム教では4人まで妻を持てるので正妻の一人といってよいかもしれません。
聡明で顔立ちもたいそう美しかったそうですが、その内面は激しい性格で気が強かったといわれます。サーリフの寵愛を一身に集めていましたが自ら産んだ男子ハリールは夭折してしまいます。
夫サーリフが亡くなると、彼女は夫の遺言を尊重し別の妻が産んだトゥーラーン・シャーを後継ぎにします。そのころエジプトはフランスのルイ9世率いる第7回十字軍の侵攻を受け苦しめられていました。彼女は夫の急死を隠しまだ生きている事にして戦争を指導したそうです。なんとかルイ9世を撃退したエジプト軍でしたが、頼りないトゥーラーン・シャーを見限りマムルークたちはシャッジャル・アッドゥールを支持しました。彼女が自分たちと同族のクマン族出身だという事もあったのでしょう。
彼女は、マムルーク軍団の力を背景に1250年トゥーラーン・シャーを殺しアイユーブ朝を滅ぼしました。イスラム世界でも珍しい女性君主の誕生でしたがアッバース朝のカリフはこれを激しく非難します。イスラム世界で女性君主でしかも簒奪王朝だという事は世間から嫌われました。
ところがアイバクは、マムルーク軍団の主力バフリー・マムルーク出身でなかったためその指導者アクターイと対立します。アイバクは自己の権力を強めるため1254年子飼いのマムルークを集め腹心のクトゥズに命じてアクターイを殺害します。バフリー・マムルークの有力武将バイバルスらは後難を恐れてエジプトを脱出しました。
アイバクは、次第にシャッジャル・アッドゥールとも対立を深め彼女に殺されます。ところがアイバクに代わって権力を握ったクトゥズは1254年シャッジャルの入浴中に刺客を放って暗殺しました。しょせん権力欲だけの結びつきだったのでしょう。野望に燃えた彼女の最期は哀れでした。
クトゥズはアイバクの子で第3代スルタンのマンスール・アリーを廃し第4代スルタンに就任します。ところがその頃西アジアにはフラグ率いるモンゴル軍が猛威をふるっていました。1258年バグダードを落としてアッバース朝を滅ぼすとその矛先はシリア・エジプトへ向けられます。
この未曽有の危機に、クトゥズは対立してシリアに逃げていたバフリー・マムルークの指導者バイバルスと和解し共同してモンゴル軍に対抗しました。マムルーク軍中にはモンゴル軍に親兄弟を殺された者が多かったため復讐心に燃えてモンゴル軍に当たったといいます。またもともとが遊牧民族出身のマムルークたちはモンゴル軍の戦い方を熟知していました。
1260年、フラグの武将キト・ブカ率いるモンゴル軍が来襲するとエジプト軍はこれをパレスチナのアインジャールートで迎え撃ち、バイバルスの活躍もあって撃退に成功します。ところがクトゥズはバイバルスをアレッポの太守にするという約束を反故にします。これに怒ったバイバルスは帰還の途中クトゥズを暗殺しました。
そのままカイロに入城したバイバルスはマムルーク朝第5代スルタンに就任します。バイバルス(在位1260年~1277年)は有能な君主でした。1261年アッバース家のカリフの一族がエジプトに逃れて来るとこれを名目上のカリフの祭り上げ自分はその下で実際の権力を行使しました。外交でも正統カリフを頂く事を最大限に利用します。内政面においては駅伝制を確立し流通と情報を支配しました。
バイバルスはエジプトを窺うフラグのイル・ハーン国、十字軍を相手に獅子奮迅の活躍をし自国を守り抜きます。とくに1273年エルビスタンの戦いでモンゴル軍を破り侵略の意図を完全に挫いた事は大きかったと思います。同年、戦勝祝いの馬乳酒の飲み過ぎで体を壊し死去。享年50歳。
マムルーク朝はバイバルスの時代に基礎が固められました。以後200年続きます。ところでマムルーク朝は軍事国家らしくスルタン位を世襲した例は数えるほどしかありません。ほとんどのスルタンは実力で権力を奪取しました。そのため血生臭い政争が後を絶たずあまり明るい印象を与えません。
そして15世紀、ペストの流行で国力を衰えさせたマムルーク朝は、アナトリア半島(小アジア)に興った新興のオスマントルコの挑戦を受けます。かつてモンゴル軍と互角の戦いを演じたマムルーク軍団はこの時完全に時代遅れになっていました。
オスマントルコは遊牧民族でありながらイェニチェリという歩兵軍団と騎兵を巧みに機動させる新しいタイプの軍隊でした。当時イェニチェリがマスケット銃をどこまで装備していたかわかりませんが(16世紀に普及しはじめる)、1516年北シリアのアレッポでセリム1世率いるオスマン軍の前に完敗。オスマン軍はそのままエジプトに侵攻しマムルーク朝は滅びました。
王朝は滅びてもマムルークが壊滅したかというとそうでもなく、しばらくはオスマン朝総督指揮下の軍隊として続きます。完全に滅び去ったのはアルバニア出身の風雲児ムハンマド・アリーがエジプト総督になってからです。軍隊としては古すぎて役に立たず、政治勢力として厄介な存在になっていたマムルークに対しアリーは1811年アラビア遠征軍任命式を行うとマムルークたちを居城におびき寄せ待ち構えてことごとく殲滅しました。
その頃オスマン帝国でも軍隊としては旧式化し政治勢力として国家の癌となっていたイェニチェリ軍団も同じような方法で滅ぼされました。(1822年)戦いの勝者と敗者が似たような経緯を辿りほぼ同時期に滅ぼされるのは大いなる歴史の皮肉ですね。