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世界史英雄列伝(40) 『明の太祖 朱元璋』 善悪を超越した巨人    ‐ 第二章 ‐

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◇第二章「朱元璋の登場」
 
 
 元朝末期順帝の至正年間、安徽省は大干魃(かんばつ)と蝗害(イナゴの被害)で大凶作に襲われました。悪い事は重なるもので疫病が猛威を振いここ濠州鐘離太平郷(現在の安徽省鳳陽県)でも一日に数十人も死者が出るという日が続きます。
 
 孤荘村の朱家でも父朱五四が64歳で亡くなったのを皮切りに半月のうちに長男の朱重四、母親の陳二嬢が次々と世を去り、残されたのは次男の重六、末子の重八だけになりました。
 
 朱五四の家は、他所からの流れもので土地もなく日雇いで生活していたため貧しく蓄えもありませんでした。
 
 残された兄弟は、父母を埋葬する金もなくボロ布に遺体を包んで近くの山裾を当てもなく彷徨っていました。ところが一点かき曇り豪雨が襲ったため遺体をそのままにしてしばらく雨宿りする事にします。ようやく雨が止みもといた場所に戻ってみると雨で崖が崩れ自然に両親の遺体を埋葬していたのです。
 
 土地の持ち主にこの事を告げると、好意でそのまま墓にして良いとのことでした。
 
 この兄弟は気付きませんでしたが、この墓は自然にできた風水上の大吉地を形成していたのです。
 
 
 もとより兄弟にそんな知識はありませんから、二人は今後の事を相談します。兄の重六は成人していましたからどこかに職を探すことになりましたが、まだ15歳の重八は一人で生き抜くことが難しいだろうと寺に預けられることになりました。
 
 こうしてただ一人の肉親と別れ、重八少年は皇覚寺の小僧となります。重八はここで読み書きを習い人として最低限の知識を得ることになりますが、平穏は長く続きませんでした。
 
 世相は大飢饉の真っただ中、紅巾の大乱が間もなく起こるように殺伐としてしました。貧しい田舎寺に蓄えがあるはずもなく、重八はお経をやっと覚えたかどうかで托鉢に放り出されます。ていのよい口減らしです。
 
 重八は生きるために諸国を放浪します。極貧の中必死に書を読み世間を見ました。人を学び人を見る目を養います。勘の良い方ならもうお分かりでしょうが、この重八こそ後の明の太祖朱元璋その人です。
 
 おそらくこの厳しい諸国放浪時代に学んだ文字で改名したのでしょう。以後は彼の事を朱元璋と呼ぶ事にします。
 
 朱元璋の托鉢という名の放浪の旅は数年に及びました。そして懐かしい故郷に帰ると寺は荒れ果て故郷の風景も随分変わっていました。
 
 時代は激動のうねりの中にありました。1351年紅巾の乱勃発、ここ濠州でも生きていけなくなり流民と化した人々が続々と反乱に身を投じます。
 
 朱元璋のもとにも同郷の幼馴染、湯和から紅巾軍参加の誘いの手紙がきます。湯和はすでに反乱軍に参加し手柄を立てて千人の部下を持つ身分になっているとのことでした。
 
 迷う朱元璋でしたが、皇覚寺が紅巾軍と元軍の戦いで焼き討ちにあったのを機に紅巾軍に参加する決意をしました。
 
 朱元璋は、紅巾軍の武将でこのあたりを支配している郭子興の部隊に参加します。初めは一兵卒でしたが、たくましい体格と智謀、人と捉えて離さない人心掌握力で命じられる以上の働きをし部隊の隊長も朱元璋の意見を聞くようになります。
 
 朱元璋のめざましい働きはいつしか総大将、郭子興の目にとまりました。郭は朱元璋を親衛隊に抜擢、試しに小部隊を指揮させてみると数々の大功を立てます。これを見ていた郭将軍の妻、張氏は有能な朱元璋をいつまでも引き留めておくために夫に朱元璋を養女馬氏の婿とするよう進言しました。
 
 馬氏は、郭子興の亡くなった旧友の遺児で子のない張夫人が引き取って育てていたのでした。
 
 こうして朱元璋は郭将軍の腹心、親族となります。馬氏は決して美人ではありませんでしたが聡明で優しい女性でした。賢婦人として名高い後の馬皇后です。
 
 
 朱元璋は郭子興を助け紅巾軍内の地位をあげるのに功がありました。しかし、紅巾軍の主力が元軍に大敗し安徽省に逃げてくると郭子興の籠る濠州城にも敗残の他の武将たちが逃げ込み、それを追ってきた元軍に包囲されます。
 
 狭い城内で、統制の取れてない諸将がひしめき合うのですから争いが無いはずありません。元軍包囲下にありながら逃げ込んできた紅軍の武将孫徳崖らと郭子興は仲違し互いに暗殺を計画するほど関係が悪化します。
 
 このような状況の中、濠州城は七カ月も包囲されました。兵糧の尽きた元軍が撤退し危機を脱した紅軍でしたが、打開策を考えようにも両陣営の対立は抜き差しならぬものになっていました。
 
 朱元璋は、郭子興の命を受け一部の兵を率い兵糧確保と募兵のために城外に出ます。この部隊には徐達、周徳興ら後の明軍幹部となる人材が集まりました。中でも後に文官の長となる李善長の参加は朱元璋を喜ばせました。
 
 小さいながらも人材を集めた朱元璋の軍は、次第に膨れ上がっていきます。李善長は朱元璋劉邦のように行動し、軍紀を厳しくしなければならないと進言したため、朱軍は反乱軍でありながら略奪もせず次第に人心を集めて行きました。
 
 1355年、郭子興が死ぬと彼の軍も吸収し朱元璋は紅巾軍の中でも有力な武将になっていました。
 
 朱元璋は将来の大望のために我慢のできる男でした。軍紀厳正な朱軍は住民に信頼され、募兵しても多くの兵が集まります。
 
 朱元璋は、このまま安徽にいてもいずれ元軍に滅ぼされると悟り、単身長江を渡り江南の集慶(後の南京)に拠点を移す決意をします。紅巾軍の他の武将はこれを無謀と笑いましたが、朱元璋には確信がありました。
 
 激しい戦いの末集慶を落とすと朱元璋はここを本拠と定め、一族郎党をすべて呼び寄せます。紅軍の指導者小明王(韓林児)は、朱元璋大元帥に任命し、このあたりの攻略を任せる事にしました。
 
 朱元璋としてもいきなり独立するより、紅軍の傘の下で実力を蓄える方が得策と考えていました。集慶を拠点に朱軍は各地を攻略します。
 
 と同時に人材の発掘に努めます。この時参加した劉基は漢の張良、蜀の諸葛亮に並び称される人材でした。こうして朱元璋は着々と地盤を固めて行ったのです。