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東ローマ(ビザンツ)帝国の重装騎兵『カタフラクト』

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 ローマ帝国の主力は、共和制から伝統の重装歩兵でした。中央にピルム(投槍)とグラディウス(スペイン式短剣)を装備した重装歩兵が布陣し、両翼に同盟軍か傭兵からなる騎兵部隊が位置するというのが長い間の基本陣形でした。

 しかし、敵がフン族などの遊牧民族あるいはパルティアやササン朝ペルシャなど騎兵が主力の軍と相対するようになると、歩兵中心のローマ軍は翻弄され苦戦を強いられるようになっていきます。

 もちろん正面からぶつかってくれば重厚なローマの陣は有効で、重装歩兵の威力をいかんなく発揮できたのですが、敵もローマ軍の強さを知っているため正面攻撃を避け、遠巻きにして馬上から弓を射るという間接攻撃を主体としてきたのです。

 これにはローマ軍も閉口しました。追いかけようにも歩兵と騎兵ではスピードが違いすぎます。困り果てたローマ帝国は第34代ガリエヌス帝(在位253年~268年)の時、軍制を改革し皇帝直属の騎兵部隊を主力とする軍団を作り上げました。

 その新しい伝統は帝国が東西に分裂した後も受け継がれ、東ローマ帝国においてカタフラクトとして結実するのです。




 カタフラクトとは…
『カタフラクト(ギリシャ語:κατάφρακτος)は東ローマ軍で考え出された複数の武器と重装甲を持った重騎兵。特に突撃の際に重要になる軍馬の前方のみに装甲を施した騎兵をいう(軍馬全体に装甲を施した重騎兵はクリバナリウスと呼ばれる)。ギリシア語で「甲冑に囲まれた(もの)」に由来する。弓騎兵と重騎兵の機能を両立させようと、弓、剣、長槍、盾を持ち、敵の弓攻撃に耐える装甲を持つ。東ローマ軍の主力であり、火力、機動力、高い装甲を併せ持った重騎兵とされる。しかし、あまりの重装備のため、高い機動性は持てず、弓矢で敵の陣形を弱めた後に突撃による衝動攻撃が主体となった。結果、戦術的な利用は期待できなかった。

後の騎士と違い、軍団兵の延長であるカタフラクトは、あくまで兵隊としての騎兵であり、社会的地位は付帯していない。

サーサーン朝ペルシャとの戦争を教訓にし、重装歩兵によるそれまでの戦闘教義が維持不能と判断した東ローマが、重騎兵を使った新しい戦闘教義として生み出だした。』(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

というものです。


 画像を見ていただくと分かる通り、槍と弓、そして剣を持った重装騎兵です。遠くからは矢、突撃する時は槍、乱戦になると剣というあらゆるレンジで戦えるのが強みでした。唯一の弱点は機動力ですが、それは別に編成された弓主体の軽装騎兵がカバーしました。

 騎兵が決戦兵種となったため、東ローマ軍はあらゆる戦術が可能となり、作戦の柔軟性が広がりました。もちろん伝統的な重装歩兵も健在で、カタフラクトによって両翼から敵を包囲して重装歩兵の陣に追い込む事もできましたし、逆に混乱した敵陣にカタフラクトを突入させ、歩兵が後に続いて戦果を拡大するという戦法も選択できました。

 ユスティニアヌス1世(大帝)(在位527年 - 565年)の時代に、名将ベリサリウスやナルセスがイタリア半島北アフリカ、スペイン南東部を回復しかってのローマ帝国に匹敵する領土を獲得できたのは、このカタフラクトが存在したからだといっても過言ではありません。


 では、なぜ最強の軍隊を有した東ローマ帝国が滅んだかというと、カタフラクトのような精強な部隊を維持するには莫大な金がかかるのです。帝国が衰退期にさしかかると財政難からカタフラクトは縮小され質も落ちました。属州制からテマ制(軍管区制)に移行するとその傾向には拍車がかかりました。

 そして軍隊は弱体化し、最後にはオスマン朝に1453年滅ぼされる事になります。