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ローマ帝国建国史Ⅷ   ファルサロスの戦い

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 カエサルポンペイウスの対決が決定的になる前、カエサル陣営からポンペイウス側に投じたのはラビエヌス一人でした。ラビエヌスはガリア戦争中カエサルの腹心として一軍を指揮し大活躍した人物ですが、自分を若い頃引き立ててくれたポンペイウスの恩を忘れず彼の下に去ったのでした。

 カエサルにとって有能なラビエヌスの離脱は痛かったのですが、妨害したりはせず気持ちよく送り出します。しかしカエサル軍中で騎兵長官まで務めたラビエヌスをポンペイウスは重用しませんでした。この一点でもポンペイウスが耄碌していたのではないかと私は疑っています。カエサルルビコン川を渡る前、カエサル派の有力武将マルクス・アントニウス護民官としてローマに居ました。ところがアントニウスは叩き上げの軍人で、外交や裏工作ができる人物ではありません。結局カエサルポンペイウスの交渉に何の寄与もできず、アントニウスは次第に強硬となった元老院の圧力に負けローマを逃げださざるを得なくなります。

 イタリア半島南部で軍団の集結を待っていたポンペイウスの下には彼に付き従う数百人の元老院議員がいました。そのほとんどがカトーのような保守強硬派で、カエサルを裁判にかけると息巻いていた連中ですから、許される見込みもなくポンペイウスに賭けるしかなかったのです。一方中立穏健派の議員たちは、途中でポンペイウス軍を離脱し自分の領地に引きこもります。カエサルはこのような日和見の連中に使者を送りローマに戻るよう説得しました。戦の行く末はどうなるか分かりませんが、今はローマの莫大な国庫を握っているカエサルが有利なのは確かでした。

 思ったより兵士が集まらなかったポンペイウスはブルンディシウムで様子を見ていましたが、諦めてアドリア海を渡りギリシャに赴きます。ここでポンペイウスには二つの選択肢があったと思います。ポンペイウスの勢力圏は地中海沿岸全体に及んでおり、兵の質ならヒスパ二アが一番でした。そこには子飼の7個軍団が滞在し、徴兵すれば20個軍団は集まったはずです。一方、ギリシャ小アジア、シリアなどは文明発祥の地だけに物資が豊富で補給には困りません。ところが文明世界の弊害として兵が弱いという欠点がありました。

 こういうとギリシャには重装歩兵による密集陣ファランクスやマケドニア伝統のぺゼタイロイ(重装歩兵)、ヘタイロイ(重装歩兵)があるではないかと指摘する歴史通の方もいると思います。ところがすでにピュドナの戦いでローマのアエミリウス・パウルスがアンティゴノス朝マケドニアペルセウス王率いるマケドニア軍を完膚なきまでに破っていました。より機動力のあるローマ重装歩兵の前にマケドニアファランクスは相手にならなかったのです。

 結果論ですが、もしポンペイウスがヒスパ二アに逃れて兵を集めていたらカエサルは勝てたかどうか分かりません。制海権ポンペイウスが握っていました。かつてカルタゴハンニバルが、ヒスパ二アを根拠地にローマを何年も苦しめた実績がありますから。ところがポンペイウスは、兵站を重視し物資の豊富な東方に向かいます。戦略的には悪い判断ではありません。ただ戦術的にはヒスパ二アの方が良かったかもしれないと私は考えます。通常は戦略が最優先ですが、カエサルとの対決は戦術上の勝利がもっとも重要なのでこの場合は戦術を優先すべきだったかもしれません。

 カエサルは、ポンペイウスが去ったのを受けてルビコン渡河から60日でイタリア半島を制圧します。ところが制海権が敵の手中にあったので追撃できませんでした。カエサルは、ポンペイウスを追撃する前にまず背後の脅威であるヒスパ二アに向かいます。やはりカエサルもヒスパ二アの重要性を認めていた事になります。ヒスパ二ア平定はわずか40日でした。

 その間、ポンペイウスギリシャで4万5千の兵力を集めます。イタリア半島への逆上陸もあり得ると判断したカエサルは、紀元前48年歩兵1万5千、騎兵5百という少ない兵力でアドリア海を渡ります。援軍を率いたアントニウスが嵐に遭ったため、合わせても2万7千ほどにしかなりませんでした。

 両軍は互いに陣地を築き睨みあいます。長年東方にクリエンテス(被保護)関係を築いていたポンペイウスのもとに東方諸国の援軍が到着し6万を超える大軍になります。ポンペイウスは東方諸国のパトロヌス(保護者)でした。これが後のパトロン、クライアントの語源です。小競り合いが起こりますが、大軍のポンペイウス軍が優勢で、本営では勝った気になった元老院議員のメッティルススキピオ・ナシカやドミティウスが将来獲得するはずの官職を巡って争う始末でした。政治力のないポンペイウスは、ただ苦々しく見守るだけです。

 ポンペイウスカエサル軍の補給を断ったため苦しくなってきます。カエサルは事態打開を図り出撃しますが、かえって敗北しテッサリア方面に移動します。ポンペイウスはここで一気に決着をつけようと全軍上げて追撃、両軍はファルサロスで対峙しました。紀元前48年8月9日、運命の決戦が始まります。

 ガリア以来の精鋭が多いカエサル軍ですが、ポンペイウス軍は数が倍で戦いはどう転ぶか分かりませんでした。あとは総大将の器量次第とも言えました。両軍は重装歩兵の横隊を正面に布陣しカエサル軍は右翼、ポンペイウス軍は左翼に騎兵を配します。もう一方の側面はエニぺウス川に面し側面の防御としました。騎兵の数はポンペイウス軍が7千、カエサル軍は千で劣勢。ポンペイウスは、騎兵の機動で敵の側面を包囲しカエサル軍を押し包んで勝とうとします。これはセオリー通りでした。

 一方、カエサルも自軍の騎兵の劣勢は自覚しており自軍騎兵の背後に古参兵からなる一隊(500名)を配置していました。ポンペイウス軍騎兵を率いていたのはラビエヌスです。カエサル軍騎兵を簡単に打ち破ったラビエヌスは、カエサル軍重装歩兵を包囲しようと部隊を右に旋回させます。ところが、カエサル軍の一隊が接近しピルム(槍)でポンペイウス軍騎兵の馬を攻撃しました。傷ついた馬は暴れ出し兵士を投げ落とします。そこへカエサル軍兵士が顔めがけて槍を突き出しました。ポンペイウス軍騎兵にはローマ貴族が多く顔を傷つけられるのを嫌ったのが敗因だと言われますが違うでしょう。おそらく騎乗する馬を攻撃されたため大混乱に陥ったのだと思います。寄せ集めで士気の低い軍にありがちです。

 混乱は騎兵だけでなく、膠着状態に陥っていた歩兵にも伝染します。勝機と見たカエサルは重装歩兵に突撃を命じました。これをポンペイウス軍は支えきれず全軍崩壊となります。カエサル軍を包囲するはずだったポンペイウスは、逆に立て直したカエサル軍騎兵と古参兵隊から左翼を包囲されたのです。

 数の優位よりも兵の質が勝った戦いでした。そしてカエサルの作戦がもたらした勝利です。ポンペイウスは、敗北を認めエジプトへ逃亡します。ドミティウスは討死、カトー、スキピオ、ラビエヌスらは元老院派が支配する北アフリカに逃れました。その他の生き残った元老院議員たちはカエサルに降伏します。用兵ではカエサルポンペイウスは互角だったと思います。ところがカエサルは現役でついこないだまでガリアで軍を指揮していたのに対し、軍を離れて久しいポンペイウスは戦場の勘が鈍っていたのでしょう。

 ファルサロスの勝利によってカエサルの覇権は確立しました。しかし難敵ポンペイウスはエジプトに逃れて再起を図るつもりでした。まだまだ油断できない情勢です。次回カエサルのエジプト遠征を記す事にしましょう。