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スキピオ・アシアティクスとマグネシアの戦い

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 ルキウス・コルネリウススキピオ・アシアティクス(紀元前2世紀、 生没年不詳)、どこかで聞いたことのある名だと思います。実はこの人、ザマの戦いでカルタゴハンニバルを破った共和政ローマ救国の英雄スキピオ・アフリカヌスの実の兄です。スキピオ家は名門コルネリウス一門の有力貴族ですが、特にこの時代有能な人物を輩出しました。スキピオ兄弟は言うまでもなく、その父プブリウスも堅実な軍人・政治家でしたし、スキピオ・アフリカヌスの息子の養子となったスキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)は第3次ポエニ戦争カルタゴを滅ぼしています。

 

 ちなみに、スキピオ・アエミリアヌスの父もピュドナの戦いでアンティゴノス朝マケドニアを滅ぼしたアエミリウス・パウルスでした。パウルスはスキピオ・アフリカヌスの妻の弟で、スキピオ・アエミリアヌスは従兄弟の養子になったことになります。

 

 アレクサンドロス大王の後継者王朝であるアンティゴノス朝マケドニアプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアはすべて共和政ローマの軍が滅ぼしました。マケドニアパウルスが、エジプトをオクタヴィアヌスが、そしてシリアはポンペイウスが引導を渡します。ただ、セレウコス朝シリアに関しては既に滅亡の130年前実質的に滅んでいたとも言えます。その立役者がスキピオ・アシアティクスでした。

 

 セレウコス1世が建国したセレウコス朝シリアは、小アジアからイラン高原に至る広大な領土を誇ります。アレクサンドロス大王の後継者王朝では最大の国力があったとも言えます。ところが、イラン高原遊牧民族パルティアが興り独立、辺境のトランスオクシアナ地方、トハリスタンを領するバクトリアも離反しました。

 

 アンティオコス3世(紀元前241年~紀元前187年)は、東方遠征を敢行しパルティアを戦争で下し従属させ、離反したバクトリアにも再び臣従を誓わせます。セレウコス朝シリア中興の祖として大王と称えられるほどでした。ところが、セレウコス朝から独立していたペルガモン王国(アナトリア西部から南部にかけて)を再び服属させようと動いたことで共和政ローマとの対立が決定的になります。ペルガモン王国はセレウコス朝の支配を嫌いローマに支援を求めたからです。当時ギリシャ諸ポリスから成るアエトリア同盟もローマの進出を嫌い反発を強めていましたから、アンティオコス3世はこれと同盟を結びローマとの対決姿勢を示しました。

 

 ローマとセレウコス朝の対立はローマ・シリア戦争へと発展します。戦端はギリシャの地で開かれました。シリア・ギリシャ連合軍はテルモピュライの戦いで完敗、アンティオコス3世は同盟者のギリシャ諸都市を見捨て小アジアに逃れます。ローマ元老院は、この際危険なアンティオコス3世叩くべしとの声が大きくなり、スキピオ・アフリカヌスの兄スキピオ・アシアティクスを遠征軍司令官に任命しました。

 

 総勢2万と言いますから、スキピオ・アシアティクスの率いたのは3個軍団(1個軍団は約6千名から成る)と若干の補助部隊でしょう。大国シリアと戦うには随分と小勢ですが、これはシリアを舐めていたというより第2次ポエニ戦争が終わったばかり(紀元前201年に終結)で余裕がなかったからだと思います。紀元前190年、ローマ軍は小アジアのマグネシアでアンティオコス3世のシリア軍を捕捉しました。この時シリア軍の兵力は総勢6万人だったそうですからローマ軍の3倍の兵力です。

 

 さらに厄介なのは、この時シリア軍にカタフラクトイという重装騎兵部隊がいたことでした。カタフラクトイ(カタフラクト)は東ローマ帝国軍の主力として有名です。馬にも防具を施し、長距離では弓、中距離で槍、接近戦では剣とあらゆるレンジで戦えるのが強みの精鋭重装騎兵の事を指します。ただ、おそらくこの時代では単に馬にも防具を施した重装騎兵の意味だったでしょう。槍が主体、弓は装備していなかったはず。弓は軽装の弓騎兵がいたでしょう。とはいえ、ローマ軍にとって脅威だったのは間違いありません。

 

 重装歩兵も5m以上にも及ぶ長槍サリッサで武装する重装歩兵ペゼタイロイ。ペゼタイロイはマケドニアン・ファランクス(長槍密集歩兵陣)を組んで戦列の中央に布陣します。その両翼にカタフラクトイ。ただ、唯一の弱点はペゼタイロイが純粋なマケドニア人ではなく現地のシリア人やメソポタミアの住民で構成されていたこと。もちろんマケドニア人の子孫もいたでしょうが、質実剛健の本来の性格を失い当時の文明社会オリエントのぜいたくな生活に慣れ我慢心が無くなっていたと言われます。

 

 戦いは、数に勝るシリア軍が緒戦から押しまくります。アンティオコス3世は、両翼のカタフラクトイで弱体のローマ騎兵を追い散らしローマ軍の主力重装歩兵を包囲殲滅する、ちょうどカンネーの戦いハンニバルのような戦い方をするつもりでした。一方、ローマ軍は両翼の騎兵が意外に頑張りました。ただ中央の重装歩兵は敵のファランクスに押され敗色濃厚になります。

 

 この時、戦場に濃霧が立ち込めました。ローマ軍右翼を指揮していたエウメネスアレクサンドロス大王の書記官長エウメネスとは当然別人。時代も違う)はこの絶好の機会を逃しませんでした。自分の指揮下にあったクレタ軽装歩兵部隊を敵左翼に奇襲させます。濃霧の中突如現れたローマ兵にシリア軍は大混乱に陥りました。シリア軍左翼にいた鎌戦車の部隊が驚いて自軍に駆け込み収拾がつかなくなります。

 

 濃霧で状況が見えないアンティオコス3世は、自軍の攻勢が成功したものと勘違いし、右翼のカタフラクトイを率いてローマ軍に突撃しました。ローマ騎兵は軽装だったため全く歯が立たず敗走、ローマ軍はカタフラクトイの攻撃を支えきれず後方の野営地に逃げ込みました。野営地というと防御力はほとんどないようなイメージですが、ローマ軍は土木技術に長けており野営地と言えども整然と整地し深い堀と柵をめぐらし、一種の城に近い存在でした。これがローマ軍が一時的に戦闘で敗北しても最後に勝利する理由ですが、この時もその威力を十分に発揮します。

 

 野営地を守っていたのはマケドニア軍のファランクスでした。後にローマと対立し滅ぼされるマケドニアも、近親憎悪からこの時はローマ軍に協力し援軍を送っていたのです。さすがに本場のマケドニアン・ファランクスは頑強でシリア軍のカタフラクトイは攻めあぐねます。戦いは混沌としてきました。ローマ軍右翼、シリア軍左翼ではローマ軍の勝ち、逆にローマ軍左翼、シリア軍右翼ではシリア軍優勢、あとは我慢比べです。ローマ軍左翼が敗走しながらも友軍マケドニア軍の奮戦でなんとか持ちこたえているうちに、ローマ軍右翼の戦闘は次第に有利になり始めました。というのも、カタフラクトイは攻勢には強くても防御ではその威力を十分発揮できなかったからです。

 

 シリア軍左翼は崩壊、中央のシリア軍マケドニアン・ファランクスはローマ軍に包囲されつつありました。総司令官であるアンティオコス3世は、右翼のカタフラクトイ部隊を率いてローマの野営地攻撃に向かっており不在、ようやくアンティオコス3世が自軍の危機を知って戻ってきたときには、中央のペゼタイロイ部隊の敗色は濃厚になっていました。この時、アンティオコス3世が、率いてきたカタフラクトイと共にローマ軍に突撃していれば、また戦局も変わったかもしれません。が、彼は意気消沈し全軍に撤退を命じました。

 

 どんなに戦況が不利でも粘り強く指揮し情勢の変化を待ち続けたスキピオ・アシアティクス、一方一時的な有利を捨て不利になったらあっさりと戦争を諦めたアンティオコス3世、将器の違いが勝敗を分けたと思います。このようにスキピオ・アシアティクスは弟アフリカヌスのような際立った戦術能力はなくとも堅実で手堅い用兵が身上の良将だったと言えます。

 

 セレウコス朝シリア軍の損害5万。ほぼ壊滅と言ってよい数字ですが、これは敗走時に生まれたものでしょう。マグネシアの敗北でセレウコス朝シリアは小アジアメソポタミアに持っていた宗主権を喪失、シリアの一地方勢力に落ちぶれました。イラン高原のパルティアは完全に離反し、逆にメソポタミアセレウコス領を侵略します。

 

 ローマ軍の痛手も大きいものでした。一説では死傷者4千とも6千とも言われます。ローマ側も完勝ではなく紙一重の苦しい戦いでした。とはいえ、この勝利でローマの地中海東部への影響力は増大します。ペルガモン王国など親ローマ勢力が拡大し、ローマはこれを支援する形で旧支配者であるマケドニアやシリアを滅ぼすことになりました。

 

 ローマがオリエントの地で強力な遊牧国家パルティアと対峙した時、かつての宗主国セレウコス朝シリアはポンペイウス率いるローマ軍の前にほとんど抵抗なくあっさりと軍門に降ることとなるのです。紀元前63年の出来事でした。