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アエミリウス・パウルスとピュドナの戦い(前編)

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 ギリシャの一角に興り欧亜に跨る大帝国を築いたアレクサンドロス大王。彼の死後将軍たちが大王の遺領を巡って激しく争い3者が生き残りました。すなわちアンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトです。これをディアドコイ(後継者)戦争と呼びますが、大王本来の領土であるマケドニアを受け継いだアンティゴノス朝は、他の二国より経済力で劣る分プライドだけは高かったと言われます。

 

 イタリア半島で急速に台頭した新興国共和制ローマに対しても苦々しい目で見守っていました。ローマが交易大国カルタゴポエニ戦争を始めると、時のマケドニア王フィリッポス5世(紀元前238年~紀元前179年)は、カルタゴの将軍ハンニバルと同盟しローマに対抗しました。しかし、援軍を送るでもなく、第2時ポエニ戦争が終わると逆にローマの攻撃を受けます。これが第1次、第2次マケドニア戦争です。紀元前197年、キュノスケファライの戦いでローマ軍に決定的敗北を喫したフィリッポス5世はローマに屈服、莫大な賠償金の他ギリシャ南部、トラキア小アジアの領土を奪われました。フィリッポス5世の非凡なところは、ローマの実力を知りその後はひたすら恭順しながら秘かに国力を蓄え、軍備を増強した事です。フィリッポス5世は、ローマへの復讐を為さないまま紀元前179年死去しました。

 

 後を継いだのは息子ペルセウス。王位継承時に弟デメトリオスを殺害しています。デメトリオスは講和の時人質としてローマに赴きその明るい性格からローマ貴族と交流を持ち好感を得ていました。ローマとしてもデメトリオスがマケドニアの王位を継ぐのが望ましかったのです。ペルセウスは性格が陰険で親ローマ派の弟を憎んでいました。デメトリオス殺害でローマとの対決は決定的になります。ペルセウスは父の残した軍隊を頼りに紀元前171年ローマとの戦争に立ち上がりました(第3時マケドニア戦争)。

 

 ローマは軍隊を派遣しますが、流石にアレクサンドロス大王の流れをくむマケドニア軍は精強で何度となく敗北します。ローマ側は、このままでは威信にかかわるので一人の人物に白羽の矢を立てました。彼の名はアエミリウス・パウルス(紀元前229年~紀元前160年)。名門アエミリウス一門ですでに一度コンスル(執政官)を務めています。この時60歳と老齢でしたが、質実剛健、富よりも名声を重視する軍才豊かな典型的パトリキ(ローマ貴族)でした。その家系も華麗で、有名なスキピオ・アフリカヌスの義弟(姉がスキピオに嫁いでいる)であるほか、自分の息子をスキピオの長男(甥)の養子に出しています。これが第3次ポエニ戦争カルタゴを滅ぼしたスキピオ・アエミリアヌスです。

 

 ローマの人々にコンスル就任を懇願されたパウルスは、民衆の前で演説しました。

「最初私がコンスルになった時はその職を求めたのだが、今回コンスルの職に就いたのは諸君が将軍を求めたのだ。従って自分は諸君に何ら恩恵を与えるつもりはない。この戦争に勝つため諸君は黙って私に従い必要な務めを果たして欲しい」

通常、コンスルに就任するときは民衆に利益を約束するものですが、パウルスの演説は逆に民衆に国家への奉仕を求めたものでした。ケネディの「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」発言に通じるものがあります。

 

 出陣の朝、パウルスは幼い娘テルティアが泣いているのを見掛けました。「どうしたのだ?」とパウルスが尋ねると、テルティアは「お父様、飼い犬のペルセウスが死んでしまったの」と言いました。パウルスは娘を慰めながら、「これは幸先が良い。この前兆を受け入れよう」と呟いたと伝えられます。

 

 ペルセウスは歩兵4万、騎兵4千を準備してローマ軍を待ち構えました。パウルスは歩兵3万4千、騎兵4千を率いてアドリア海を渡ります。アレクサンドロス大王の流れをくむマケドニア軍とコホルス戦術の柔軟な用兵を誇るローマ軍、地中海の覇権をかけた戦いでした。次回、ピュドナに相まみえた両軍の戦いとその後を描きます。