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ローマ帝国建国史Ⅸ   エジプト遠征

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 ファルサロスの戦い後、ポンペイウスはエジプトに亡命しカトーやスキピオ・ナシカ、ラビエヌスらは属州アフリカ(現在のチュニジア)に逃亡します。ポンペイウスが亡命したプトレマイオス朝エジプトとはどのような国だったでしょうか?

 マケドニアアレクサンドロス大王死後ディアドコイ(後継者)と呼ばれる彼の将軍たちが大王の遺領を巡って激しく争いました。これをディアドコイ戦争(紀元前323年~紀元前281年)と呼びます。この中で勝ち残ったのはアンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの三者でした。最初にアンティゴノス朝マケドニアがピュドナの戦いでローマの将軍アエミリウス・パウルスに一敗地に塗れ滅亡。セレウコス朝シリアはポンペイウスが東方遠征中に滅ぼします。かつては小アジアからイラン高原に渡る広大な領土を誇ったセレウコス朝でしたが滅亡前はシリア近辺を領するだけの小勢力に落ちぶれていました。

 これに対し、プトレマイオス朝エジプトは東をスエズ地峡に守られ西と南は砂漠だったため安定を維持します。ヘロドトスが評した通り「エジプトはナイルの賜物」でナイルデルタの肥沃な地形は小麦の一大産地を形成していました。人口850万を数える堂々たる大国です。外征兵力24万、ローマにとっても侮れない国だったのです。

 ポンペイウスが亡命先にエジプトを選んだのは間違った判断ではありません。エジプトから兵力を借りもう一度カエサルと決戦をするつもりだったのでしょう。先代王プトレマイオス12世はお家騒動でローマに亡命していたのを、ポンペイウスの援助で即位する事ができ恩を受けていました。彼の子であり現在の王プトレマイオス13世は7歳と幼少でしたが、先代の恩を考えればポンペイウスを援助するのは当然でした。

 しかし、そのような恩を気にするほどエジプト人、とくに宮廷人たちは良識のある者たちではありません。ポンペイウスの亡命を受け入れ援助すれば、超大国ローマの実質的指導者カエサルとの戦争を意味します。これは滅亡と同義語でした。逆に亡命を拒否すればポンペイウスの恨みを買いまだまだ強力だったポンペイウスの与党東方諸国と深刻な対立を生みます。しかも、この頃プトレマイオス13世は姉で共同統治者、そして妻でもあるクレオパトラ7世と王位を巡って内戦の途中で余裕がありませんでした。

 悩んだエジプトは、最悪の選択をします。紀元前48年10月1日、ポンペイウスをいったん受け入れて油断させ暗殺するのです。享年58歳。波乱の英雄の最期でした。結果論ですがエジプトはポンペイウスの亡命を拒否しカエサルの軍門に降るべきでした。そうすれば王朝は続いていたと思います。しかし、いったん亡命を受け入れてからの殺害はローマ人たちを不快にさせます。この時の悪印象が後のエジプトの運命を決めたとも言えるでしょう。

 カエサルが手勢を率いてエジプトに到着したのはポンペイウス暗殺から7日後でした。そこで塩漬けにされたかつての盟友の首を見せられます。カエサルは気分を害し下げさせました。この時ポンペイウス一族でエジプトの捕虜になっていた者たちはカエサルに救い出されます。

 カエサルは、エジプトに滞在しプトレマイオス13世と姉のクレオパトラ7世との調停をしようと考えます。プトレマイオス朝の王族が近親婚を繰り返していた事に奇妙さを覚える皆さんも多いでしょう。これはギリシャの伝統ではなくおそらくエジプトの慣習だったのでしょう。王の高貴さを保つためだと考えられますが、現代からみると異常だと見えます。

 莫大な穀物産地でローマも大量に小麦を輸入していたエジプトの政治的安定はカエサルにとっても必要でした。カエサルはエジプト自体を征服してどうこうしようという考えはなくエジプトがローマの忠実な同盟者で外交的に裏切らず、ローマに小麦を供給してくれさえすれば良かったのです。

 首都アレクサンドリアに滞在したカエサルの下に一人の女性が忍んできます。クレオパトラ7世でした。一般には絶世の美女でその美しさにカエサルが心を奪われ彼女に味方したと言われますが、私は間違いだと思います。彼女の胸像が残っていますが決して美女とは言えず個性的な顔立ちをしていました。そもそもカエサルは生涯で2度正式に結婚し、愛人も50人は下らなかったと言われます。美女など見飽きていました。カエサルクレオパトラに愛情を感じたとしてもそれは顔ではなく彼女の聡明さにだったと思います。

 それよりも最初は、頼りなく信頼も置けない(ポンペイウスを裏切って暗殺した)プトレマイオス13世より、彼女を単独のエジプト王とした方がローマにとって都合良いと考えたのでしょう。カエサルプトレマイオス王を切ったのは側近の連中の醜悪な人間性を見たからです。

 事実、クレオパトラカエサル本営に居るという情報をつかんだプトレマイオス陣営はいきなりローマ軍に攻撃を仕掛けます。この時カエサルは1個軍団しか連れてきておらず、しかも半数はローマに戻していたためわずか数千の兵力でした。エジプト軍は誇張ではあるでしょうが十万を集めたといいます。ところが歴戦のローマ軍はエジプト軍の攻撃を凌ぎ切り、援軍の到着を待って攻勢に転じます。ナイルの戦いでカエサルはエジプト軍に勝利、プトレマイオス13世は軍と共に戦死しました。

 戦後処理のためカエサルはしばらくエジプトに滞在します。その間、クレオパトラ7世を単独のエジプト王に即位させ、彼女との間にカエサリオンという一人息子までもうけました。そんな中小アジアに派遣していたローマ軍がポントス王ファルナケス2世に敗北したという報告が入ります。紀元前47年6月、カエサルは自ら軍を率い平定に赴きました。ゼラの戦いで勝利したカエサル元老院に戦勝報告します。この時の言葉が有名な「来た、見た、勝った」 (Veni, vidi, vici.)です。

 ポンペイウスを倒し、彼の東方における勢力を平定したカエサルはローマに帰還しました。戦争はこれで終わりではなく属州アフリカに逃亡したカトーらが2個軍団を擁し抵抗を示していたため、カエサルは鎮圧の必要性を感じます。アフリカにはポンペイウス派の残党が多数逃げ込んでいましたが、軍事的に有能なラビエヌスは大軍を率いてカエサルと雌雄を決するようなカリスマも器量もなく、カトーやスキピオ・ナシカらは元老院の重鎮で権威はあっても軍事的にはド素人。しかもカトーとスキピオ・ナシカが別々に軍を率いるなど統制もない状態でした。

 おそらく、カエサルは今度の遠征にそれほどの精神的負担は感じていなかったと思います。ただカトーらが、ヌミディア(現在のアルジェリアからモロッコあたり)王ユバ1世と組んでいた事がやっかいなだけでした。ヌミディア地中海世界最強の騎兵を出す国で、ポエニ戦争でもハンニバルに率いられたヌミディア騎兵にローマは何度も煮え湯を飲まされていました。

 紀元前47年12月28日、カエサルは5個軍団(第5、第9、第10、第13、第14。重装歩兵3万、騎兵4千)を率い北アフリカ、タプススの南70キロの地点に上陸します。スキピオ・ナシカらは現地で徴兵した歩兵3万同盟諸国騎兵9千の他にヌミディア王からの援軍(歩兵2万5千、騎兵6千、戦象120頭)を合わせ6万以上の大軍を集めました。

 両軍はタプススで対峙します。戦場は南西に潟が広がり進軍ルートはタプススに至る細長いいくつかの陸地のみでした。カエサルは内応を約束していたマウレタニア王に使者を送りヌミディア本国を襲わせます。ヌミディア王ユバ1世は迎撃のため半分の兵力を本国に戻さざるを得なくなりました。

 両軍の布陣は、ポンペイウス派が中央に歩兵部隊の横陣、両翼に騎兵と戦象を配するオーソドックスなものに対し、カエサル軍は中央に騎兵、両翼に重装歩兵横陣を配置する奇妙なものでした。これはファルサロスでも使用された騎兵と戦象対策で、事実戦闘が始まると突進する戦象の足を斧で攻撃しなぎ払ったので傷ついた戦象は狂奔しポンペイウス派の陣中をずたずたにします。ラビエヌスが指揮する騎兵部隊も戦象の暴走に巻き込まれ潰走しました。敵の大混乱をカエサルは見逃しませんでした。中央の騎兵が突撃し、敵の戦象、騎兵を追い払った重装歩兵部隊が両翼から包囲したため、ポンペイウス派はたまらず逃げだします。ヌミディア王ユバ1世は、ザマに逃れますが町の住民は受け入れを拒否し城門を閉ざしました。背後からカエサル軍が迫る中絶望したユバ1世は、元老院議員マルクス・ぺトレイウスと刺し違えて自害、ヌミディア王国はこの時滅亡します。

 スキピオ・ナシカはヒッポレギウスで追手に追いつかれ殺害されました。その他アフラニウス、ファウストゥス・コルネリウス・スラらは捕えられて処刑されます。ラビエヌスはポンペイウスの二人の遺児とともにヒスパニアへ逃れました。カエサルは今回の乱の元凶の一人カトーの籠るウティカを囲みます。カトーは奴隷を解放して兵士にするなど徹底抗戦の構えを見せますが、肝心のウティカ住民の協力を得られず悲観したカトーは自害して果てました。

 こうしてカエサルは、属州アフリカ平定を果たします。残るはヒスパニアに逃げたラビエヌスとポンペイウス兄弟だけです。カエサルは、最後の戦いに赴こうとしていました。その後に待っているのはスラと同様終身独裁官。皇帝という選択肢もあります。しかし、彼は元老院を甘く見過ぎていました。

 次回、不世出の英雄カエサルの最期を描きます。