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墨守

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 古代支那戦国時代は諸子百家と言われる思想家たちが多数出てきた時代でもありました。有名なものでは孔子孟子儒家老子荘子道家儒家荀子から発展した法家などがあげられます。その一つに兼愛非攻の博愛主義を掲げた墨子墨家がありました。

 

 墨家酒見賢一の小説『墨攻』でも有名になりましたが、あの小説の通り墨家たちは兼愛非攻が綺麗事では成り立たないことも十分理解していました。墨家は自らが武装することで侵略の被害に遭う国を助け自分たちの理想を貫こうとしたのです。当然、勝つためには技術がなければなりません。墨家の祖墨子は工匠だったとも言われ、新兵器を開発し戦争にも携行していきます。

 

 墨子は本名を墨翟(ぼくてき)と言いました。生没年は不祥ですがだいたい紀元前470年~紀元前390年頃の人だと言われます。当時、公輸盤(こうゆはん)という人が南方の大国楚のために雲梯という攻城用の新兵器を開発し、楚王はこれを使って弱小国宋を攻めようとしていました。この噂を聞いた墨子は魯(の出身だと言われる)から昼夜兼行で楚の都郢(えい 現在の湖北省荊州市あたり)に駆け付け、公輸盤に面会を求めます。

 

 「聞くところによると貴殿は雲梯という兵器を使って宋を攻めようとしているそうだが、宋にいったい何の罪があるのか?そもそも楚は広大な土地であるにもかかわらず人口が少ない。足りないものを殺して余っているものを奪うのは智とは言えますまい。加えて罪のない宋を討つのは仁とは言えないでしょう」

 これに対し公輸盤は「仰る通りだが、すでに楚王の裁可を得ている。今更中止はできない」と答えます。

「ならば楚王に謁見させてほしい」と墨子はさらに食い下がりました。

 

 楚王に面会した墨子は最初にこう発言します。

「立派な車があるにもかかわらず隣家の車を盗もうとする者がいます。王はこれをどう思いますか?」

「盗癖があるに違いない」王が答えると

「では申し上げますが貴国の国土は五千里四方、一方宋は五百里四方しかありません。物資も富も豊富な貴国が宋を攻めるのは盗癖のある男と何の違いがあるでしょうか?」

 楚王は「お話はその通りだが、せっかく雲梯を作った公輸盤の立場もある。今更攻撃を止めるわけにはいかない」と拒否しました。

 

 墨子は楚王に公輸盤との直接対決を申し出ました。図上演習をしようというのです。革帯を解いて城壁に見立て木札を兵器になぞらえて攻撃させました。すると公輸盤がどのように攻めようと墨子はことごとくこれを防ぎます。木札の尽きた公輸盤は「負け申した。だが自分には奥の手がある」と発言します。

 

 不審に思った楚王が尋ねると、墨子は「彼の意図は分かっています。私さえ殺せば守るものがいなくなってたやすく勝てるというのでしょう。しかしすでに私の高弟三百人が私の考案した防御兵器を持って宋で楚軍の攻撃を待ち構えています。私を殺しても宋を滅ぼすことはできませんぞ」と答えました。

 

 こうして宋攻撃は中止になります。墨子は満足して帰路につきました。途中、宋を通ると大雨に見舞われます。墨子が民家の軒差しで雨宿りをしていると門番から追い立てをくらったそうです。宋の人たちは自分たちの命を救った大恩人の功績を全く知りませんでした。墨子の著者(おそらく墨子の弟子)はこのエピソードをこの一文で締めくくっています。

 

 「人知れず危機を救えば人々はその功績に気付かない。これ見よがしに騒げばその功績は知られるのだが」

 

 

 墨子は兼愛非攻の博愛主義を説きましたが、それが綺麗事では実現しないことも十分承知していました。ただ、人類の歴史は戦争の歴史でもあり、博愛主義は理想ではあっても絶対に実現しないことを我々は知っています。墨家集団も時代の流れで衰退していき、現在は残っていません。結局戦争を避けるためには自らが武装しなければいけないという事なのでしょう。非武装中立論者がこの話を読んで現実に目覚めてくれれば良いのですが、まあ無理でしょうね。