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古代イランの歴史Ⅳ  アルサケス朝パルティア王国(前編)

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 紀元前330年、マケドニアアレクサンドロス大王によってアケメネス朝ペルシャは滅ぼされます。イラン高原マケドニアの領有となりました。しかしアレクサンドロスは自らの帝国の首都と定めたバビロンで没します。享年32歳。
 
 
 アレクサンドロスが後継者を定めず没したため彼の遺領を巡って将軍たちが相争います。これをディアドコイ(後継者)戦争と呼びますが、この中で生き残ったのはアンティゴノス朝マケドニアプトレマイオス朝エジプト、そしてバビロン総督だったセレウコスの興したセレウコス朝シリアでした。イラン高原セレウコス朝が支配します。
 
 ところがセレウコス朝は、地中海沿岸部を巡ってプトレマイオス朝と戦争に突入し東方はおろそかになっていきました。紀元前256年、王国最東端バクトリアの総督ディオドトスは反乱を起こし独立します。これをバクトリア王国と呼びます。セレウコス朝側は、独立を認めず何度も討伐軍を起こしますが、バクトリアはイラン北東部ホラサン地方にいたパルティア人と結びこれと対抗しました。
 
 長い戦いの末、結局セレウコス朝側が折れる形でバクトリアとパルティアの独立を認めます。一応セレウコス朝の宗主権だけは残されましたが、こうしてパルティアは歴史上に登場しました。
 
 
 ところで、パルティア人とはどういう人たちだったのでしょうか?アーリア人であった事は間違いなさそうですが、早くからイラン高原に定住し農耕や都市生活に順応したアケメネス朝治下のアーリア人と違い、最後まで遊牧生活を捨てず蛮風をいつまでも持ち続けた人たちだったようです。このため次に出てくるササン朝は、彼らを同じ民族とは認めず自らをアケメネス朝の正統な後継者と主張します。
 
 パルティア人は、最初カスピ海アラル海の間の平原で遊牧生活をしていたようです。その後次第に南下しアケメネス朝の支配下に組み込まれます。セレウコス朝の混乱をみて独立の好機と捉えたのかもしれません。
 
 
 アルサケス朝パルティア創始者はアルサケスという人物でした。支那の歴史書でパルティアの事を安息国と呼ぶのは、このアルサケスの名前から来ています。古代ペルシャ語では「アルタクシャサ」。ギリシャ語読みでは「アルタクセルクセス」です。
 
 
 アルサケスがアサ-クというパルティアの都市で即位したのは紀元前238年だといわれます。しかし歴代ペルティア君主が「アルサケス」の称号を持っていた事、そして2代国王ティリダテスの業績がはっきりしているのに比べアルサケスに関してはほとんど記録がないため研究者の間では初代アルサケスは実在せずティリダテスが初代国王ではないか?とも言われますが、はっきりしません。
 
 ただ歴代ローマ皇帝が「カエサル」という称号を持っていた史実もあり、それだけでアルサケスの実在を疑う事はできません。本稿では一応実在の人物としておきます。
 
 パルティアは、6代国王ミトリダテス1世(在位BC171年~BC138年)の時代に大きく版図を広げます。それまではヘカトンピュロスを首都とする一地方政権にすぎませんでしたが、弱体化したセレウコス朝を討ってイラン高原に進出、紀元前148年には旧メディア王国の首都エクバタナを陥落させています。紀元前141年にはバビロニアに侵入しセレウキアを占領しました。これによってセレウコス朝は東方の領土をほとんど失いシリアの一地方政権に落ちぶれます。はるか西方ではイタリア半島にローマが勃興、東方世界への進出を開始していました。
 
 
 イラン高原の主人公となったパルティアと、セレウコス朝を滅ぼしてオリエントに進出したローマはいずれ衝突する運命でした。紀元前2世紀末、パルティアは新たな脅威ローマに対抗するためチグリス川を挟んだセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設し王国の中心を西方に移します。第9代、ミトリダテス2世の時代でした。
 
 
 ミトリダテス2世(在位BC124年~BC87年)は、アルメニア保護国化しローマの将軍スラと交渉してユーフラテス川を両国の国境と定めます。
 
 
 パルティアは、他のオリエント諸国と違って封建制を採用し王権はそれほど強力ではありませんでした。そのため強力な王がいるときは問題になりませんでしたが、王権が弱体化すると貴族たちの権力争いで内紛が絶えませんでした。さらに拡大する一方のローマは、豊かなメソポタミア平原を狙ってしばしば侵入を試みます。
 
 オロデス2世とミトリダテス3世の王位継承を巡る内戦で疲弊した時を見計らって、ローマ三頭政治の一人クラッススが12万を超える大軍でローマ領シリアを出発、パルティアに侵略を開始しました。紀元前53年ミトリダテス3世を敗死させようやく王権を握ったオロデス2世は、将軍スレナスを大将としてこれを迎え撃たせました。
 
 三頭政治の他の両雄カエサルポンペイウスの輝かしい戦功に比べ実績の無かったクラッススが、彼らに比肩する軍功をあげようと標的にしたのがパルティアでした。確かにパルティアを征服できればカエサルポンペイウスに勝るとも劣らぬ名声を得られます。しかし商人上がりに過ぎない彼の野心は高いものとなりました。
 
 両軍は北シリア、カルラエの地で激突します。パルティア軍は、ローマ軍の4分の1でした。しかし歩兵中心のローマ軍と違い全軍騎兵で固めたパルティア軍は、ローマ軍と直接対決せず遠巻きに矢を射かけました。
 
 世にパルティア式射術(Parthian Shot)という言葉があります。馬を操るのに巧みだったパルティア人は馬で逃げながらひょいと後ろを向いて矢を射かける事が出来たのです。敵は敗走していると勘違いして嵩にかかって攻めているのですから、一瞬に攻守が逆転するパルティア式射術は脅威でした。
 
 この時のローマ軍もこれにさんざんやられたそうです。クラッススは、自慢のローマ重装歩兵による突撃を実行させてもらえず成すすべもなく敗れ去りました。クラッススの息子プブリウスは深追いして戦死、ローマ軍は4000人の負傷者を置き去りにして潰走しました。クラッスス自身も間もなく殺され、彼の首はオロデス2世に献上されます。ローマ史上でもほとんど例を見ないような大敗北でした。降伏した大量のローマ兵捕虜たちは東方に送られ二度と祖国の土を踏む事はありませんでした。