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古代イランの歴史Ⅳ  アルサケス朝パルティア王国(後編)

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                   ※パルティア式射術(Parthian Shot)のイメージ
 
 
 カルラエの敗北、クラッススの戦死は第一回三頭政治を崩壊させました。バランサーのいなくなったカエサルポンペイウスは厳しく対立し戦争に突入します。カエサルはその戦いに勝利しローマの独裁者への道を歩み始めました。しかし間もなく独裁を恐れた元老院の共和主義者によって暗殺されます。その混乱を治めたのはカエサルの養子オクタヴィアヌスカエサルの有力な将軍だったアントニウスです。彼らはカエサルの老将レピドゥスを引き込んで第二回三頭政治を開始しました。
 
 シリアを含むローマ東方領土はアントニウスの担当となります。彼はエジプトの女王クレオパトラに誘惑されローマを蔑にする政治を行いました。彼が決意したパルティア遠征も彼女に唆されたという説があるくらいです。
 
 
  一方、パルティアの情勢はどうだったでしょうか?カルラエの勝利の立役者スレナスは、その名声が王を凌ぐ事を恐れたオロデス2世によって間もなく粛清されました。王は自ら軍を率い報復のシリア侵入を試みますがもともと軍事的才能に乏しかったため失敗します。後を継いだフラアテス4世(在位BC38年~BC2年)までシリアを巡ってローマとパルティアは一進一退の攻防を続けていました。
 
 
 アントニウスは、シリアを巡る東方問題を解決しその名声によってライバル、オクタヴィアヌスを打倒しようと考えていたのかもしれません。この時も10万を超える大軍が動員されたそうですが、勇猛ではあってもやはり軍事的才能に乏しいアントニウスのパルティア遠征は失敗します。その後アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れたアントニウスは、エジプトの首都アレクサンドリアクレオパトラと共に自害、野望は潰えました。
 
 
 その後もアルメニアの帰順を巡ってパルティアはローマとしばしば争います。そして戦争の無い時は国内の政争に明け暮れ国力は次第に疲弊していきます。
 
 
 220年、アケメネス朝発祥の地と同じファールス地方にアルダシール1世が独立します。パルティア王アルタバヌス5世の討伐軍を破りパルティアの本拠地メソポタミアに攻め入りました。相次ぐ内紛で求心力を失っていたパルティアでは、メソポタミアの諸都市が次々と離反してアルダシール側に付きました。
 
 もともとアルダシールはパルティアに服属するペルシス王国の王でした。ただその領土は属国のうちでは最大でアルメニアよりも大きかったといわれます。彼の父バーバクの時代から勢力を伸ばし婚姻政策や謀略によって次々と領土を拡大していったそうです。このバーバクの時代にすでに独立を果たしていたともいわれます。
 
 208年、バーバクはパルティア王ヴォロゲセス4世(あるいは5世)と戦って敗死します。これで再びペルシス王国はパルティアに服属したのでしょう。しかし息子アルダシールの時代に再び叛き今度は成功したのです。
 
 
 224年(226年という説も?)、パルティアの首都クテシフォンがアルダシールによって陥落。パルティア最後の王アルタバヌス5世は捕えられて処刑されました。アルダシールは、ササン朝ペルシャを興しクテシフォンを都に定めます。
 
 
 ただしアルダシール1世の戦いは続きました。というのもパルティアという国は中央集権制ではなく封建制だったため各地に有力な諸侯が存在したのです。特にアルメニアなどはパルティア王家出身の王が立っていたためこれらの勢力と時には戦い時には懐柔して勢力を拡大しました。
 
 
 ササン朝は、自分たちの大義名分を主張するためアケメネス朝の正統な後継者だと主張しました。そのためパルティア時代を否定しあたかも異民族の征服王朝であったかのように振舞います。しかしパルティア人の言語は東北イラン語であるパルティア語で古代ペルシャ語とは異なるもののその先祖を辿れば同じアーリア系言語にいきつくそうです。
 
 アケメネス朝、パルティア、ササン朝は同じイラン高原に栄えたアーリア系の王朝であったと言えます。