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ローマ帝国建国史Ⅳ   スパルタクスの乱

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                               ポンペイウス


 紀元前83年、スラのローマ進軍に参加したグナエウス・ポンペイウス(BC106年~BC48年)。騎士階級(上級市民)に属し中部イタリア、ピケヌム周辺に広大な土地を持つ大地主。父が執政官(BC89年)経験者で閥族派だったためマリウスの迫害を恐れ故郷に帰っていました。その父の死後莫大な財産を相続したポンペイウスは、一族の有力者からの助言で自費で2個軍団を召集、スラ軍に合流します。

 わずか23歳の若者ですが、背後には大地主ポンペイウス一族をもっていたためスラは祖略に扱いませんでした。使ってみるとなかなかの軍才がある事を見抜きます。ポンペイウス自身も節度ある態度・弁論の説得力・誠実な人柄・他人への如才なさ(プルタルコス評)で民衆から好かれました。スラが冷酷非情であったためポンペイウスに民衆が救いを見出したというところが真相でしょうが。

 スラは先妻の一族の娘をポンペイウスに与え一族として優遇します。実はすでにポンペイウスは結婚していたそうですが、最高権力者の意向には逆らえませんでした。ポンペイウスはスラの命令で軍を率いシチリア北アフリカのマリウス派残党を討ちます。見事に成し遂げたポンペイウス凱旋式の許可を求めますが、元老院は無冠で元老院議員でもない若輩者の凱旋式など認めませんでした。そこでポンペイウスは、スラの許可を得て盛大な凱旋式を挙行します。

 次は、ヒスパ二ア(現イベリア半島)のセルトリウス討伐戦です。セルトリウスはマリウス派のヒスパ二ア総督で現地民を手なずけほとんど独立国となっていました。何度討伐軍を送っても失敗したため元老院は苦虫をかみつぶしながらも再び無冠のポンペイウスに出陣を求めます。その際「執政官代理官」という苦しい肩書を与えざるを得ませんでした。ここでもポンペイウスはゲリラ戦で抵抗するセルトリウスを数年で鎮圧します。セルトリウスは部下に殺されました。

 その際、元老院議員の一部とセルトリウスが通じているという秘密文書を入手しますがポンペイウスはこれを焼いて不問に付しました。生前スラは、ポンペイウスにマグヌス(偉大な)という称号を与えたそうです。スラ本人としては半分冗談のつもりだったらしいのですが数々の輝ける功績によってグナエウス・ポンペイウス・マグヌスという名前はローマ中に知れ渡りました。

 スラ死後も元老院ポンペイウスを無視できなくなります。スラの軍団を引き継いでいたからです。ポンペイウスは鎮圧後のヒスパ二アを寛大に統治し、以後この地はポンペイウスの有力な勢力圏になります。ポンペイウスがヒスパ二ア遠征から戻ろうとしている頃、イタリア本土では大事件が起こっていました。剣奴スパルタクスを首領とする反乱です。

 ポエニ戦争以後、ローマでは貴族が広大な土地を所有し、ローマ軍団の中核を構成する重装歩兵になる市民層が没落した事は以前書きました。数々の社会矛盾を改革しようとしたのがグラックス兄弟で、既得権益を持つ貴族層の反発で失敗。軍人マリウスが、現実的な手段で解決しますがそれはあくまで軍事的問題だけでした。大土地所有は、必然的に労働力として奴隷を多く抱える社会体制です。古代社会ですから、奴隷の扱いは非人道的でした。もちろんオリエント諸国と比べれば幾分かましではありましたが。

 奴隷の中で、剣奴と呼ばれる存在がありました。闘技場で剣闘士として死ぬまで戦わされる奴隷でローマ市民はそれを見て楽しみます。絶望的な境遇ですから不満が爆発しないわけがありません。紀元前73年カプアにある剣奴養成所から78人の奴隷が逃亡しました。周辺の羊飼い、牛飼いの奴隷も加わり反乱軍は近隣の山に立て籠もります。最初小規模な反乱だと舐めていたローマは少数の兵力を送って鎮圧しようとしますが失敗しました。ローマ人が彼らを剣闘士として鍛えていたから当然です。

 反乱軍の指導者は、トラキア出身といわれるスパルタクス。反乱は各地の奴隷たちを糾合し大規模なものになりました。元老院は当時法務官の地位にあったクラッススに鎮圧を委ねます。ところがクラッススは大富豪ではあっても軍才はそれほどでもなくたかが奴隷反乱の鎮圧に苦労しました。スパルタクスの反乱軍は最初故郷に帰る事を夢見てイタリア半島を北上。しかし極寒のアルプス越えを断念して南下、海路ギリシャ方面への逃亡を図りました。

 クラッススは、同じスラ門下でありながら若年のポンペイウスの名声が轟いている事を癪に思っていましたからスパルタクスの反乱鎮圧で名声を得ようとやっきになって攻め立てました。そしてついに紀元前71年イタリア南部で反乱軍主力を捕捉ほぼ全滅させます。

 反乱軍残党5000名は、イタリア半島のつま先カラブリア地方に逃げ込みました。ところがそこへヒスパ二アから戻ったポンペイウス軍が上陸します。ポンペイウスは、鎧袖一触で簡単に壊滅させ元老院スパルタクスの反乱を鎮圧したのは自分だと報告しました。結局ヒスパ二アの大功とスパルタクス反乱鎮圧を合わせポンペイウスは二度目の凱旋式を許されます。今度こそ本当に元老院ポンペイウスの力を認めました。

 一方、最後の最後に功を奪われたクラッススはますます不満を募らせました。冷静に見ると彼の詰めの甘さが招いた事態でしたが、軍才が無いので理解できなかったのでしょう。紀元前70年、ポンペイウスクラッススは共に執政官(定員2名、任期1年)になります。クラッスス閥族派の意向に従いますが、ポンペイウスはローマで多数派を占める平民派に理解を示しました。国民的人気の高いポンペイウスとしては当然です。

 さらに元老院ポンペイウスに地中海全土へ広がり海上交通を妨げていた海賊の討伐を命じました。その際地中海全土と内陸80キロまでの命令権を3年間与えるという決定を下します。ポンペイウスの腹心だった護民官ガビニウスの提案で民会が可決しました。さらに500隻の艦船、12万の兵力、莫大な軍資金がポンペイウスに与えられます。強大な権限を握ったポンペイウスは見事海賊を鎮圧。しかも3年どころか3ヶ月の早さでした。

 ポンペイウスの腹心たちは、ローマで策謀しさらに再び反ローマに立ち上がったポントス王ミトリダテス鎮圧の最高指揮権も与えるよう運動しました。これも容認され当時現地に遠征していたルクルスの軍団も加える事となります。これにより地中海全域がポンペイウス個人の手に帰したのです。

 ポンペイウスは、強大な軍事力によってミトリダテス王をコーカサス地方まで追い詰めます。ミトリダテス王は部下に殺されポントス王国の反乱も鎮圧されました。ポンペイウスはこの遠征の結果アルメニアを属国とします。さらにシリア王国も降し属州にしました。ユダヤでは王位継承問題に干渉しこれを治めます。

 ポンペイウスは、これまでの数々の戦功によりスラに匹敵する絶対権力を握るはずでした。ところが政治力でスラに劣る彼は元老院の制御に失敗します。ポンペイウスを巡る元老院の空気は冷たいものになりつつありました。

 クラッススもまた、同様でした。そしてもう一人新興勢力が登場します。彼の名はガイウス・ユリウス・カエサル。次回、第1回三頭政治を語る事にしましょう。