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日本の戦争Ⅱ  ノモンハン事件1939年

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 モンゴル高原は東へ行くとなだらかに下り興安嶺山脈まで同じようなステップ地形が続きます。これが興安嶺を過ぎると針葉樹林地帯になり全く気候が変わります。古来興安嶺が遊牧民と狩猟民の生活圏の境でしたが、興安嶺東の針葉樹林地帯に興った半農半牧の満州族が強大化したために興安嶺西部の本来はモンゴル族の土地まで支配するようになりました。そのため、満洲国が成立しても現地の遊牧民は国境線をまたいで生活していたのです。というよりそもそも彼らに近代的概念である国境線という考えはなかったと思います。ここまでが大前提。

 1924年モンゴル高原ソ連の傀儡であるモンゴル人民共和国、1932年満洲に日本の傀儡である満洲国が成立しても、ここホロンバイル草原の遊牧民の生活にはほとんど変化がありませんでした。満蒙国境は曖昧なままでしたから、ソ連/モンゴルはモンゴルと中華民国の国境線、日本/満洲はそれより10~20キロ南方のハルハ河の線を主張します。互いの認識が違うわけですから両国の国境警備隊は越境を繰り返しました。

 ここまで書くと日本側のごり押しという印象をもたれると思いますが、この地帯は砂漠と草原が続くだけの荒漠たる大地で牧畜以外には利用しようのない不毛の土地でした。シベリア出兵時に入手したロシアの地図を見て日本側がハルハ河を国境と認識していただけにすぎなかったのです。ということで、ノモンハン事件は日本とソ連の面子だけの問題だったと私は思います。

 きっかけは些細な事でした。1939年5月12日モンゴル軍の騎兵700が越境し満洲国軍国境警備隊と交戦したという報告を受けた関東軍第6軍隷下の第23師団師団長小松原中将は、これがのちに日ソ両軍合わせて4万人以上の死者を出す大激戦になろうとは思っていなかったでしょう。不法越境も何も両者の認識が違うので水掛け論になってしまいます。

 張鼓峰事件を受けて陸軍中央は不拡大方針を決めますが、現地の関東軍辻政信参謀らが中心となって「満ソ国境紛争処理要綱」を定め、日本側主張の国境線を軍事力で維持すべしという強硬策を採ります。軍少壮参謀の暴走も問題でしたが、植田関東軍司令官、大本営が黙認した事はそれ以上の大問題でした。結局現地部隊の暴走に中央政府が引きずられるという最悪の状況がノモンハンで起こるのです。

 ノモンハン付近でソ連軍が本格介入してきたという報を受け、関東軍は現地ハイラルの第23師団に断固として阻止するよう命じます。第1次ノモンハン事件は1939年5月11日から31日まで続きました。この戦いは痛み分けに終わります。両軍それぞれ死者行方不明者100名余。空の戦いは日本軍の優勢で制空権を保持しました。

 ソ連政府は、意外な日本軍の抵抗に驚き本格的攻勢を準備し報復攻撃の機会を待ちました。ゲオルギー・ジューコフ中将を第57軍団長に任命し戦車、火砲、航空機を増強します。この時1個狙撃師団、3個装甲車旅団、1個戦車旅団が新たに送り込まれました。関東軍は、不毛の大地ではろくな補給もできないだろうとこの動きを軽視します。当時の日本軍は鉄道輸送中心でハイラルから200キロも離れているし、ソ連軍はその何倍もの補給線を維持しなければならないというのが理由でした。ところがソ連軍は何万台もの輸送トラックを準備しピストン輸送させることで問題を解決します。両者の認識の違いは現地部隊に大きな影響を与えます。豊富な物量を持って戦ったソ連軍に対し日本軍は乏しい武器弾薬で戦わざるをえませんでした。

 ソ連軍の増強を甘く見た関東軍は、第23師団の他に安岡戦車団(戦車78両と第7師団の歩兵1個連隊)を加えただけでした。航空兵力は第2飛行集団(180機)を中心に集め「鶏を割くに牛刀を用いるようなもの」と豪語したそうですがその自信はまもなく完全に打ち砕かれる事になります。

 7月3日未明ソ連軍大攻勢の意図を挫くべく積極的攻勢に出た第23師団は、たちまち数百両のソ連軍戦車、装甲車の大軍に囲まれました。日本軍は善戦したものの大きな損害を受けて撤退を余儀なくされます。ハルハ河右岸を南進した安岡戦車団も蛇腹式ピアノ線を張り巡らせた防御陣地に引っ掛かったところをソ連軍戦車、対戦車砲の集中砲火を受け壊滅的打撃を受けます。

 俗に日本戦車の装甲が薄く非力だったから負けたという意見がありますが、当時のソ連戦車(T-26、BT-7など)も大差なく正面からぶつかれば互角でした。ソ連軍の方が対戦車戦闘に一日の長があったということでしょう。実際戦後明らかになった情報ではソ連軍戦車もかなり損害を受けています。

 自慢の戦車隊の大損害に驚いた関東軍は、安岡支隊を解体、戦車を前線から引き揚げさせました。これでますます火力を失った現地部隊は苦戦を続ける事になります。ソ連軍は航空戦力も大増強し空戦でも日本軍は苦戦しました。火砲も両軍で10倍近い差があり、日本軍は歩兵による夜襲で局面打開を図ります。これはある程度成功を収めますが、損害も当然多く大勢を覆すには至りませんでした。

 ここに至ってようやく関東軍は事の重大性に気付き、兵力の増強を図ります。ところが泥縄式に決まったため戦力の逐次投入という最悪の選択をしてしまいます。8月に入ると戦局はさらに絶望的になりソ連軍の大攻勢の前になすすべもなく敗退し戦線を大きく引き下げざるを得なくなりました。結局ソ連軍は従来主張する国境線まで進出しそこで留まります。ソ連も日本との全面戦争を望んでおらず、此処に至ってようやく停戦交渉が始まりました。

 9月15日モスクワで停戦交渉がまとまります。ノモンハン事件の主役だった第23師団は実に全兵力の70%という死傷者を出しました。これは近代戦においてほぼ壊滅といっても良く日本側の損害の大きさが分かります。これを見て戦後ノモンハンは日本軍の大敗北だったと評されますが、ソ連崩壊で明らかになった資料を見ると実はソ連軍の損害の方が上回っていた事が分かります。ジューコフも対独戦よりノモンハンの方が苦しかったと述懐したくらいです。


 では何が問題だったか考えると、私は

①情報の軽視、楽観的見方に引きずられた状況判断の誤り
②軍中央と現地部隊(関東軍)の意思不統一
③補給能力の差
④戦力の逐次投入
⑤責任者処罰の不公平

が挙げらると思います。実は事件後何人かの前線指揮官は敗戦の責任を取って自決を強要されますが、辻政信ら実質的にノモンハン事件を引き起こした参謀たちは何ら責任を取らず対米戦でも作戦指導し、さらに大きな損害を日本軍にもたらしました。信賞必罰の精神が軍のエリートには適用されないダブルスタンダードが私は日本の敗戦の原因の一つになったと考えているのです。そんな中厳しい状況で戦った現地の日本軍将兵には頭が下がります。