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房総戦国史Ⅳ  結城合戦

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 永享の乱で敗れ自害した鎌倉公方足利持氏。後を継ぐべき嫡男義久も父と運命を共にします。義久の最後には異説があり父と共に永安寺で自害したという説と、父の死の四日前に三浦・上杉・二階堂勢に攻められ報国寺で自害したという説、あるいは幕府方の長尾芳傳に降伏するも義教が許さなかったため父の仏前で焼香しそこで自刃したという説がありはっきりしません。どちらにしろ将軍義教は持氏の一族を生かすつもりはなかった事が分かります。当然残党狩りも苛烈を極めました。

 ここまで厳しい敗戦処理がなされると、持氏方に付いていた諸将は生きた心地がしません。絶望的な状況から自暴自棄になる者も当然出てきました。それは幕府方に降伏していた者たちも同様です。そういう環境が結城合戦を生んだのだと私は思います。

 持氏には義久の他に幼い三人の子供がいました。すなわち春王丸、安王丸、永寿丸です。1440年(永享十二年)追い詰められた持氏方の残党は持氏の遺児春王丸、安王丸を擁して常陸において挙兵します。これはすぐさま討伐すれば簡単に鎮圧できるくらい小規模なものでした。ところが下総結城城主結城氏朝(1402年~1441年)は、二人の遺児を結城城に迎えこれを庇護します。

 最初は氏朝も、鎌倉公方の遺児を擁して幕府に対し反乱を起こそうなどという大それた野心はなかったと思います。ただ結城氏は永享の乱では最初鎌倉公方持氏方に与し、その後幕府に降伏して許された家でしたので、潜在的に幕府からは猜疑の目で見られていたと想像します。それに加え、義教の持氏一族に対する仕打ちに義憤を抱いていたのかもしれません。安王丸は御教書を関東の諸将に下したとされますが、10歳にも満たない少年にそれができるはずはありません。おそらく付き従った持氏の遺臣たちが行ったとは思いますが、鎌倉府再興を願う関東諸将の心を打つには十分でした。

 御教書に共鳴して、里見修理亮、大須賀越後守、宇都宮等綱、小山広朝らが参陣し結城城に拠ります。近くの下総古河城には野田右馬助氏行、関宿城には下河辺一族が籠って氏朝に呼応しました。時の関東管領山内上杉憲実でした。実は憲実は永享の乱の後幕府に隠居願いを出していたのですが許されず弟上杉清方を管領代とし後見する事を命じます。

 この時も、実質的に関東の幕府方を動かしたのは憲実でした。その他、義教は駿河守護今川範忠、信濃守護小笠原政康に命じて追討軍を進発させます。下総結城城を囲んだ幕府の大軍は実に十万騎を数えたと言います。もちろん誇張でしょうが少なくとも関東では見た事もない大軍であった事は間違いありません。総大将は管領代上杉清方。

 結城方は、当主氏朝、嫡男持朝らが頑強に抵抗します。結城城は田川と鬼怒川によって形成された河岸段丘上に位置する平城で、空堀と水堀で囲まれた難攻不落の城でした。しかも籠城する諸将は救援の当てもなく絶体絶命の死地でしたので激しく抵抗し幕府方は攻めあぐねたそうです。しかし結局は多勢に無勢、城は落城し主将結城氏朝は嫡男持朝と共に討死しました。これで関東の名門下総結城氏は一時断絶します。

 春王丸、安王丸は捕えられ京都に送られました。幼い二人は京都に向かう途中美濃垂井において将軍義教の命で斬られます。持氏の末子でまだ幼児だった永寿丸も隠れていたところを発見され捕えられました。彼の運命も兄たちと同様死罪は確実でしたが、間もなく勃発した嘉吉の乱で将軍義教が横死したため奇跡的に死を免れます。

 将軍を暗殺した赤松満祐が義教を自邸に招いた口実が結城合戦戦勝の祝いだった事が何とも皮肉です。永寿王は助命され管領細川持之が養育する事になりました。これで鎌倉府は完全に滅亡した形でしたが、広い関東を関東管領上杉氏だけで統轄するのはむずかしかったのでしょう。1449年(宝徳元年)上杉一族、常陸守護佐竹氏、下総守護千葉氏、下野守護小山氏らが連名で持氏の遺児永寿王を迎えて新しい関東の主とすべく幕府に願い出ました。時の将軍足利義政はこれを許し14歳になっていた永寿王を関東に下向させます。

 鎌倉に到着した永寿王は、同年11月元服し成氏(しげうじ)と名乗り、関東管領には山内上杉憲実の長子憲忠が登用され、鎌倉府は復活したかに見えました。ところが鎌倉公方足利成氏は自分の父と兄たちを死に追いやった上杉一族への恨みを忘れていなかったのです。成氏と関東管領上杉一族との対立は必至でした。


 次回、成氏と上杉一族の対立から全関東を巻き込む大乱となった亨徳の乱、古河公方家の成立を描きます。