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まあ、わざわざ敵を作ることもないからな

【歴史】「東大寺を戦乱に巻き込むな」…織田信長の書状発見


 天正元年(1573年)九月といえば、その前の元亀四年が同年の七月まで。天正には七月二十八日に改元されたばかり。この当時の織田信長の状況と言えば、まさに元亀四年四月十二日に最大の宿敵ともいうべき武田信玄が西上作戦途中に病死し危機を脱したところですからね。

 元亀四年七月(改元直前)、足利義昭山城国槇島城に籠って信長に抵抗するも撃破されて追放、室町幕府が滅亡しています。これが天正への改元理由の一つですよね。たしか信長が申請して朝廷に容れられたとか。大和国奈良県)に関係あるところと言えば、松永久秀が信玄の西上作戦に呼応して多聞山城で謀反籠城している最中です。結局久秀は、同じく河内で蜂起した三好義継が十一月若江城で敗死し、自身は織田軍の重包囲下にあって孤立無援になったため十二月に信長に降伏しました。

 この時は奇跡的に許されたのに、後に上杉謙信の上洛作戦(実際は加賀までしか来なかった)に呼応し信貴山城で謀反、自害しているんですから懲りない老人ではあります(苦笑)。

 それはともかく、天正元年九月は信長にとって微妙な時期。大和国のもと国主であった松永久秀の謀反だけに大和中が騒然としていたはず。東大寺は久秀に大仏殿を焼かれた恨みもありますから、この際織田の味方につけるか少なくとも中立を保たせることは戦略上望ましい事だったと思います。そのための書状でしょう。

 たかがお寺に、と思われる方も多いと思いますがこの当時の大寺院は武装東大寺もたしか三千人から五千人の僧兵を抱えていたはず。比叡山が特に有名ですが実は本能寺の変が起こらなかったら高野山も織田軍三万(指揮官は堀秀政)に焼き討ちされる寸前でした。東大寺も侮れない軍事力を持っていたといえます。これが敵対するとなると収拾がつかなくなることは必定。いくら仏敵とはいえ東大寺も自分の命が大事ですからあえて敵対は避けたかったと想像します。むしろ東大寺の方から積極的に信長に近づいたかもしれませんね。

 歴史の一場面を象徴する貴重な書状だったと思います。