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お艶(つや)の方が死ななくて済んだ方法

 お艶(つや)の方は岩村御前とも呼ばれる女性です。織田信長の叔母にあたります。といっても信長の祖父信定晩年の子だったらしく信長とは2~3歳くらいしか離れていなかったとも言われます。織田家お市の方に代表される通り美人の多い家系でお艶も大変な美貌だったと伝えられます。ただこの時代、美人であっても得はなく、政略結婚の犠牲になりました。

 

 お艶は、最初尾張の豪族の下に嫁いだと言われますが夫と死別し一度家に帰っています。甥である信長は、美濃平定を見据え彼女を東美濃の豪族遠山景任(かげとう)に嫁がせました。これが稲葉山城攻略前か、後かは不明ですがどちらにしろ美濃安定のための楔として彼女を送り込んだのでしょう。遠山氏は現在の恵那市岩村町にある山城岩村城の城主でした。遠山氏は信濃国境に近い恵那郡一帯に勢力を張る一族です。景任は病弱だったそうですが、政略結婚であるにもかかわらず夫婦仲は良かったと言われます。

 

 しかし、お艶にとって幸せは長く続かず、夫景任が1572年(元亀三年)病死してしまいます。二人の間に子がなかったため、遠山家臣団は動揺しました。重臣会議の結果、信長の五男御坊丸(後の勝長)をお艶の養子に迎えゆくゆくは遠山家の家督を継がせるという事で纏まります。と言っても御坊丸はまだ幼少ですから、成人まで義母であるお艶が女城主として岩村城を預かることになりました。

 

 国境の豪族というのは難しい立場です。遠山氏の場合も隣国信濃を支配する武田氏との関係に苦慮します。元亀三年武田信玄は西上作戦を開始、遠江国三方ヶ原で織田の援軍を加えた徳川家康軍を鎧袖一触し三河に侵入しました。信玄は同時に信濃国飯田郡代だった秋山虎繁(信友)に命じ兵三千で美濃に侵入させます。当時信長は、足利義昭が画策した信長包囲網で東奔西走しており岩村城に援軍を送る余裕がありませんでした。岩村城は秋山軍に包囲され落城も時間の問題となります。

 

 この時虎繁は岩村城に使者を送り、「お艶の方と自分が結婚することで和睦の条件としよう」と申し出ました。最初は難色を示したお艶でしたが、家臣団の圧力か自身の心境の変化か知りませんが、この条件を受け入れます。こうして岩村城と遠山領は武田氏の支配下に入りました。後継ぎとして岩村城に入っていた御坊丸は甲斐に人質として送られます。

 

 この事が信長の怒りを買いました。信玄の急死によって窮地を脱した信長は1575年(天正三年)設楽原の合戦で武田勝頼を撃破、同年嫡男信忠を大将とする軍勢を岩村城に派遣します。武田家と織田家の力関係は完全に逆転していました。お艶も虎繁も死は覚悟していたでしょう。ところが信長はさらに過酷な条件を示しました。「城兵の命を助けるために自害は許さず降伏せよ」と言ってきたのです。二人は条件を飲まざる得ませんでした。

 

 長良川畔まで連行された二人は、逆さ磔という極刑で処刑されました。信長の怒りがどれほど凄まじかったか分かります。武田家臣である秋山虎繁はまだしも、実の叔母に当たるお艶に対する仕打ちは惨すぎました。

 

 

 以上がお艶の方の生涯ですが、私は彼女が生き残る方法もあったと思うんです。それは秋山勢に包囲された時。虎繁との結婚を承諾せず、御坊丸と共に城を出て岩村城を明け渡すべきだったと考えます。どちらにしろ遠山家臣団は武田方に調略されていただろうし守ってやる義理はなかったはず。秋山方にとっても犠牲を出さず労せずして岩村城が手に入るんですから納得したでしょう。

 

 御坊丸と共に信長のもとに帰っていれば、叱責はされたかもしれませんが史実のような惨たらしい最期にはならなかったはず。お艶の方の決断は、一時的には安寧を得たかもしれませんが破滅への選択でしたね。