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三国志Ⅷ  呂布の末路

 198年、呂布の武将高順の攻撃を受けた劉備はたまらず城を捨て逃亡しました。落ち行く先は許都の曹操劉備の堂々たる態度を見た曹操の謀臣程昱は「彼は将来丞相(曹操の事)に仇なすようになりますから、今のうちに殺しておくべきです」と進言します。ところがそれを聞いていた郭嘉は「とんでもない。今彼を殺したら以後降伏する武将はいなくなります。劉備は天下に名の知れた士。厚遇するに然りです」と反対しました。その後出仕した荀彧も郭嘉に賛成したため曹操の意は決します。
 
 
 曹操は早速朝廷に奏上して劉備を左将軍・豫州牧に任命しました。198年9月、曹操呂布討伐を決意しまず夏侯惇を大将として劉備と共に徐州に攻め込ませます。最初の戦闘で左目に矢を受けた夏侯惇は、「せっかく親から貰った目だ。捨てるに忍びない」と引き抜いた矢に刺さった眼球を食べてしまったというエピソードがあります。
 
 呂布治下の徐州はガタガタでした。劉備から徐州を奪ったという印象も悪かったし、圧政を布いて領民の心は離れていたのです。曹操の大軍を受けて武将たちが次々と離反、呂布は野戦で敗れ本拠下邳に籠城します。曹操劉備の連合軍はこれを十重二十重に囲みました。呂布は同盟していた袁術に援軍を求めますが、袁術は人質として呂布の娘を要求したため決裂、申し訳程度に送った援軍も曹操に撃破されてしまいます。
 
 曹操は、豪傑呂布に対し力攻めは大きな犠牲が出ると考えました。そこで荀攸郭嘉らの策を採用し近くを流れる沂水と泗水の水を引き込んで下邳城を水攻めにします。籠城一カ月。ある日呂布の武将侯成は低下していた士気を高めるため禁止されていた酒を兵士たちに振舞いました。
 
 これを知った呂布は激怒、侯成を命令違反のかどで斬ろうとしますが、さすがにこれは諸侯が引きとめて止めました。しかし侯成は鞭打ちの刑をうけます。これを見ていた武将たちは呂布を見限り秘かに曹操の陣に使者を送り内応を約束しました。
 
 
 曹操軍は、その日激しく下邳城を攻め立てました。防戦していた呂布もさすがに疲れ敵の攻撃が一時止むと部下たちから勧められ一時休憩します。椅子に座りながら眠っていた呂布を見ていた武将たちは呂布が反応しないのを確かめると十重二十重に縄で縛り開城、曹操呂布を差し出しました。
 
 
 裏切り続けた呂布が、最後に自分の部下たちから裏切られたのは皮肉でした。曹操の前に引き立てられた呂布は、
曹操、お前は有能な者なら誰でも部下に加えるという。俺を使ってみないか?俺が騎兵、そなたが歩兵を指揮すれば天下を統一する事もたやすい」
と叫びました。
 
 
 曹操は傍らの劉備に「はて、どうしたものか?」と尋ねます。しばらく考えていた劉備
「それは丞相のお心次第です。ただ呂布が養父丁原を殺して董卓に付き、さらにその董卓まで裏切ったことは忘れるわけにはいきますまい」
と答えました。
 
 「良し、決まったな」曹操の命で呂布は斬られました。最後の瞬間まで呂布劉備を罵っていたそうです。思えば裏切り続けた人生でした。呂布は自然児だったのでしょう。自分の欲望に正直なだけにその時々悪人どもに利用され裏切りを演じる羽目になりました。然し彼は反省などしなかったのだと思います。いや、反省したとすれば長安貂蝉の死に顔を見た時だけだったでしょう。ただ呂布が一代の英傑だったのは間違いありません。
 
 
 有力な同盟者呂布を失った事で偽帝袁術の運命も決しました。